第21話「片倉景綱の安堵——『あの姫様は、伊達家にとっても女神かもしれん』」(後半)
翌日。
昨日の疲労と胃痛をドロリと引きずりながら、景綱が城内の廊下を歩いていると、背後から凛とした声に呼び止められた。
「景綱殿、少しよろしいですか」
振り返れば、そこにいたのは正室・愛姫だった。
大崎の陣から戻ったばかりだというのに、その佇まいは一輪の花のように気高く、長旅の疲れなど微塵も感じさせない。
「愛姫様。何でございましょう」
景綱が深く頭を下げると、愛姫は周囲に人がいないことをそっと確認してから、静かに問いを投げかけた。
「景綱殿、其方から見て駒姫様はどのような方でしたか」
あまりに直球な問いに、景綱はわずかに言葉を探した。
愛姫も大崎の陣で駒姫と顔を合わせているが、それはほんの短い時間だったはずだ。どこまで踏み込んで答えるべきか。
「……恐ろしいほど聡い姫様です。とても七歳とは思えませんでした」
景綱が誤魔化さずに正直な評価を口にすると、愛姫は「そうですね」と静かに、けれど確信に満ちた笑みを浮かべた。
「私も、一目でそう感じました」
「愛姫様は、駒姫様をどのようにご覧になりましたか」
景綱が探るように問い返すと、愛姫は少しだけ伏し目がちになり、慎重に言葉を選ぶ。
「賢い子です。そして――本当のことを言えば、少し怖い子でもあります」
「……怖い、でございますか」
「ええ」
愛姫が、景綱を真っ直ぐに見つめる。その瞳には、確かな知性の光が宿っていた。
「七歳の子供が、あれほど冷静に周囲を観察している。その目は――大人の目をしていました。自分がどう振る舞えば、周囲がどう動くか。それを完全に計算している目です」
景綱は、思わず息を呑んだ。
(愛姫様は、あのわずかな時間で、あの姫様の本質をそこまで見抜いておられたのか……)
「左様ですな」
景綱が深く頷くと、愛姫はふわりと、春風のように柔らかく微笑んだ。
「でも――政宗様が入れ込むのも、わかりますね」
その言葉に、景綱は恐る恐る問うた。
「……愛姫様は、政宗様の『従妹バカ』を容認されておられるのですか」
正室として、夫が他家の(たとえ七歳の幼女とはいえ)姫君に異常なほど入れ込んでいる状況は、決して面白いものではないはずだ。
しかし、愛姫は静かに首を振った。
「容認、というより……あの子は、政宗様にとって良い影響を与えてくれると思っています」
「良い影響、ですか」
「ええ。政宗様は、あの子と話すことで――少し、変わりましたから」
愛姫の瞳には、夫である政宗への深い愛情と、駒姫という存在への確かな信頼が宿っていた。
(愛姫様は、なんと聡明で、底知れない器を持ったお方だ……)
景綱は、伊達家を支えるこの正室の器の大きさに、内心で深く、深く感服した。
その夜。
景綱は一人、自室の燭台の前に静かに座っていた。
パチパチと爆ぜる炎を見つめながら、今日までの怒涛の出来事を脳内で整理していく。
(――大崎合戦は、奇跡的な無血和睦で終わった)
本来なら最上軍との泥沼の消耗戦になり、両家共倒れの未来すらあったはずの戦。それが、完全に「ゼロ」になったのだ。
(そして、我が主君は最上家と強固な同盟を結んだ)
奥羽を代表する二大勢力が、ついに手を取った。これは、南から圧倒的な力で迫り来る豊臣秀吉への対抗力として、計り知れない価値がある。
(――それを成し遂げたのが、たった七歳の幼女だという事実)
景綱は、深く、長いため息を吐き出した。
殿が入れ込むのも、わかる。愛姫様が容認するのも、わかる。あの成実殿が一目置くのも、痛いほどよくわかる。
あの姫様は、ただの子供ではない。
伊達家最大の危機を救い、全く新しい生存の道を示してくれたのだ。
「――あの姫様は……伊達家にとっても、女神かもしれないな」
景綱の口から、自然とそんな言葉が漏れ出ていた。
それは、伊達家随一の苦労人であり、冷徹な軍師でもある片倉景綱が、駒姫という存在の圧倒的な価値を完全に認めた瞬間だった。
しかし。
景綱の明晰な頭脳は、即座に冷酷な現実へと引き戻された。
「――ただし。殿の『従妹バカ』が加速するのは、全く別の問題だ」
政宗は今日、帰城するなり嬉々として駒姫への文を書き送った。
あの底知れない姫様は、次に何を仕掛けてくるのか。そして、駒姫からの返書が届いた時、我が主君は一体どんな顔をして、どんな無茶を言い出すのか。
「――胃が、また痛む」
景綱は重く絶望的なため息をつきながら、そっと、今日何度目かわからない手つきで胃の辺りを押さえた。
伊達家随一の切れ者の胃痛は、どうやらまだまだ治まりそうになかった。
それから数日後。
米沢城の廊下に、弾むような足音が響き渡った。
「景綱! 景綱はどこだ!」
案の定というか、予想よりさらに早い。
主君の手には、丁寧な筆致で書かれた一通の文が握られていた。
「見ろ、返書が来たぞ! 七歳にしてこの達筆、この奥ゆかしさ……やはりあの姫は天才だ! すぐに返信を書くぞ、景綱! 紙だ、一番良い紙を持ってまいれ!」
政宗が、わずかに笑った。
いや、「わずかに」どころではない。
その表情は、天下を狙う野心家のそれではなく、完全に「推し」の返信を受け取った熱狂的なファンのそれであった。
「……はぁ。承知いたしました」
景綱は、すでに空になった胃薬の瓶を思い出し、遠い目をして頭を下げた。




