第21話「片倉景綱の安堵——『あの姫様は、伊達家にとっても女神かもしれん』」(前半)
大崎合戦の和睦が成立してから、数日の時が流れた。
伊達軍は陣を払い、本拠地・米沢城へと続く帰還の路をゆく。
春の柔らかな日差しが降り注ぐ街道を、伊達の騎馬隊が土煙を巻き上げて進んでいた。
家路を急ぐ兵たちの表情には、「生きて帰れる」という剥き出しの安堵と、どこか拍子抜けしたような疲労感が入り混じっている。
それも無理はない。あの戦いが、あんな『超展開』で幕を閉じるなど、誰が予想できただろうか。
(……胃の腑が悲鳴を上げている)
片倉景綱は、馬の心地よい揺れに身を任せながら、昨日までの怒涛の出来事を振り返り、密かにこみ上げる胃酸を堪えていた。
――本来なら、どうなっていたか。
景綱の明晰な頭脳は、今さらながら最悪の「もしも」を、冷徹なまでに弾き出してしまう。
もし、あの三者会談で和睦が成立していなければ。
伊達軍は、大崎義隆を救うべく現れた最上義光の軍勢と、正面から激突していたはずだ。地の利を活かし、士気も最高潮な最上軍。対する伊達軍は、連戦に次ぐ連戦で疲労はとっくに限界を超えている。
間違いなく、泥沼の消耗戦になっていただろう。
甚大な兵の損耗。莫大な兵糧の消費。そして何より、最上義光という強大な伯父との決定的な関係悪化。
両家が血を流し、ボロボロに疲弊しきった隙を突き、もし南から豊臣秀吉の軍勢が介入してくれば――伊達家も最上家も、揃って改易。最悪の場合は、一族郎党ことごとく滅亡の憂き目に遭っていたかもしれない。
まさに、最悪のシナリオだ。
――それを、すべて「無し」にしたのだ。あの、小さな姫君が。
景綱は、手綱を握る手にぐっと力を込めた。
わずか七歳の幼女が、ただ一言。「身内が傷つくのを見たくない」と言って、ポロポロと涙をこぼして泣いた。
たったそれだけで。
その一言だけで、あの独眼竜・政宗の心が動き、腹黒い「羽州の狐」こと義光が折れたのだ。
結果として、伊達家の兵力損耗は奇跡の「ゼロ」。
それどころか、最上家という強力な同盟国まで手に入れてしまったのだ。
景綱は、前方を行く政宗の背中を仰ぎ見た。
政宗は、見るからに「上機嫌」だった。今にもルンルンとした鼻歌が聞こえてきそうな、弾むような後ろ姿。あの独眼竜がこれほどまで無防備に背中を緩ませるなど、滅多にあることではない。
(……殿があそこまで入れ込むのも、わからなくはないか)
景綱は、誰に聞かせるでもなく静かに独白した。
その時、隣に一騎の馬がスッと寄せてきた。伊達家きっての猛将、伊達成実だ。
「……片倉殿」
成実の声は、周囲の兵に絶対に聞こえないよう、ひどく低く抑えられていた。
「成実殿。いかがされました」
成実が、前方の政宗の背中をちらりと見てから、探るように問うた。
「……あの姫様は、本当に七歳なのか?」
景綱は、少しだけ間を置いた。その疑問は、景綱自身も痛いほど感じていたことだったからだ。
「……私も、最初は信じられませんでした」
成実が、深く、重いため息をつく。
「俺は、あの姫様を見た時、背筋が寒くなった。あの姫様の目を見たか? 七歳の幼女が、あんな目をするか? まるで、俺たちの何手も先を読んでいるような……」
「左様」
景綱は、静かに同意した。
「あの姫様の目は——七歳の無邪気な子供の目ではなかった。何か……ずっと遠くの、我々には見えないものを見ている目です」
成実が、どこか諦めたように、苦笑するように口元を歪めた。
「政宗様が入れ込むのも、わかる気がする。あの姫様は……恐ろしいが、確かに面白い」
(……成実殿まで、すっかり魅了されている)
景綱は、内心で静かに驚愕した。
伊達の武の象徴であり、真っ直ぐな気性の成実までもが、あの七歳の幼女に一目置いている。伊達家という巨大な歯車が、駒姫という得体の知れない存在に引き寄せられ、回り始めている。
「率直なところを聞かせてくれ。片倉殿は、あの姫様をどう見た?」
成実の問いに、景綱は前を向いたまま、偽りない本音を答えた。
「……恐ろしい姫様だと思いました。そして——伊達家にとっても、必要な姫様かもしれません」
その言葉に、成実が静かに頷いた。
米沢城に帰還した政宗は、鎧を脱ぐのももどかしいといった様子で、上機嫌のまま自らの居室へと引き上げた。
景綱が慌てて後を追って入室すると、政宗はすでに文机の前にドカッと腰を下ろしていた。
「景綱、文の用意をしろ」
弾んだ声が室内に響く。
「……文、でございますか。どちらへ」
「駒姫への文だ。約束した文のやり取りを始めるぞ」
景綱は、思わずズキリと痛む額を押さえた。
「……殿、帰城早々でございます。まずは長旅の疲れを癒やし、少し落ち着いてから――」
「俺は、落ち着いている」
即座に、食い気味に遮られた。
(――落ち着いていない。絶対に、微塵も落ち着いていない!)
景綱は内心で全力のツッコミを入れたが、そこは忠臣、必死に理性で飲み込む。
「あの従妹は、次に何を考えているのか。早く知りたいものだ」
政宗の隻眼が、まるで新しい玩具を見つけた少年のようにキラキラと輝いている。
(我が主君が、七歳の幼女の『次の一手』をこれほど楽しみにしているとは……)
景綱は本日何度目かわからない胃の痛みを感じ、そっと労るように腹部を押さえた。もはや胃薬が手放せそうにない。
政宗が、ひどく楽しげに筆を走らせ始める。その筆致は、普段の退屈な政務をこなす時とは明らかに違っていた。あまりに滑らかで、迷いがない。
(殿の『従妹バカ』が、恐ろしい速度で加速している。誰か止めてくれ……)
景綱は絶望的な確信を抱きつつも、同時に気づいてしまった。
「あの底知れない姫様が、この文にどう返すのか」
自分自身も、ほんの少しだけワクワクと期待してしまっていることに。景綱は自嘲気味に、ふっと苦笑するしかなかった。




