第18話「伊達家の内情——片倉景綱、胃を痛める」(後半)
夜が訪れた。
伊達軍の陣営は、しんと静まり返っている。
焚き火の周りでは、兵士たちがのんびりと夕食を取りながら、ようやく訪れた安らぎを噛み締めていた。
片倉景綱は、夜回りのために陣内を静かに歩いていた。
ふと耳を澄ませば、遠く最上軍の陣営から陽気な笑い声が風に乗って聞こえてくる。
(――和睦、か。張り詰めていた両軍の糸が、わずかに緩んでいるな)
そんな感傷に浸りながら歩を進めていると、背後から声をかけられた。
「片倉殿」
振り返れば、そこには伊達成実が立っていた。
景綱は足を止め、短く応じる。
「成実殿」
成実は吸い寄せられるように景綱の隣に並び、二人は無言で陣営を見渡した。
やがて、成実が探るように、そしてひどく重々しく口を開いた。
「……片倉殿。あの姫様は――恐ろしい姫様ですな」
景綱の眉がピクリと跳ねる。
「……あの姫様、とは」
「決まっている。最上の駒姫様だ」
成実の言葉に、景綱は深く、重く頷いた。
「左様。わずか七歳であの聡明さ。そして――何より、殿を動かしてみせた」
「正直に言う。俺はあの姫君と目が合った瞬間、背筋に冷たいものが走った」
成実の告白に、景綱はわずかに目を見開いた。
「……成実殿、貴殿もですか」
「ああ。あれはただの幼子ではない。七歳という皮を被った『何か』だ。あのお方を言葉一つで説得するなど、並の人間では到底できぬ。……底が知れぬほど恐ろしい」
景綱は一瞬の沈黙の後、ためらいながらも「現場」の状況を共有した。
「……政宗様も、駒姫様に並々ならぬ興味を抱いておられる」
成実がギョッとしたように絶句した。
「……それは、本気で言っているのか? まずいのでは……」
「左様。何より、あの義光殿が黙っておるまい」
「あの方は駒姫様を、目に入れても痛くないほど溺愛していると聞く。もし政宗様が距離感を誤って近づきすぎれば――」
「――義光殿が、般若となって激怒する」
二人は無言で顔を見合わせた。
最悪の未来予想図が、二人の脳裏でぴたりと重なった瞬間だった。
焚き火の炎がパチパチと爆ぜ、夜の静寂を乱す。
成実が、藁にもすがるような目で景綱を見つめた。
「……片倉殿。貴殿なら、政宗様を止められるか?」
景綱は、天を仰いでから深く、深くため息をついた。
「……わかりませぬ。殿は一度何かに執着されると――止まらぬ御方だ」
「……それは、俺が一番よく知っている」
成実は諦めたように自嘲気味に笑った。
「しかし、止めねばならぬ。殿が暴走すれば、せっかく結ばれた和睦の糸が、無残に引きちぎられかねん」
「左様。片倉殿、頼んだぞ。殿の手綱を握れるのは、貴殿しかおらぬ」
成実から託された責任の重さに、景綱は重々しく頭を下げた。
「……死力を尽くしましょう」
二人は再び、静まり返った陣営に視線を戻した。
春の夜風が、二人の髪をいたずらに揺らして吹き抜けていく。
景綱はそっと、疼き出した胃のあたりを掌で押さえた。
景綱が自陣の幕を潜ると、そこには静寂だけが横たわっていた。
張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、彼は泥のような疲労感とともに床几へと身体を預ける。
脳裏を過るのは、今日という一日に起きた怒涛の出来事。
そして、認めたくはないが認めざるを得ない、あまりにも恐ろしい一つの「確信」だ。
――殿が、七歳の幼女に入れ込んでいる。
冗談であってほしかった。だが、現実はどこまでも残酷だ。
あの駒姫という少女は、確かに異常なほどに聡明だった。そして、あろうことか「東北の覇者」伊達政宗を、たった一言で、その場しのぎではない「本気」の和睦へと動かしてみせたのだ。
七歳の幼女が、あの独眼竜を説得する。本来なら驚天動地の快挙なのだが、今の景綱にそれを手放しで喜ぶ余裕はない。
もし、殿があの姫様に深入りしすぎれば、伯父である最上義光が黙っているはずがない。
そうなれば、我らが主君はまた制御不能な暴走を始めるだろう。
「はぁ……」
今日何度目かも分からない、深く、重いため息が漏れた。
主君の暴走を止めるのが自分の役目だ。景綱は悲壮な決意を胸に刻み、静かに目を閉じる。
だが――景綱は、まだ知らない。
翌日の宴会で、政宗が「当然の権利だ」と言わんばかりの顔をして、駒姫を自らの膝に乗せることを。
それを見た義光が、文字通り般若のような形相で爆発し、天幕が吹き飛ぶほどの怒号を上げることを。
そして――何より、景綱自身の胃壁が文字通り限界を迎え、物理的な悲鳴を上げることを。
景綱は無意識に、鈍い痛みを感じ始めた胃のあたりをそっと押さえた。
「……俺の胃は、本当にもう持たんぞ……」
吐き出された一言は、夜の闇に虚しく消えていった。
天幕の外からは、和睦を喜ぶ最上軍の楽しげな笑い声が風に乗って聞こえてくる。
伊達家の苦労人が独り胃を痛めている間に、春の夜は静かに更けていく。
明日、さらなる地獄――もとい、カオスな宴が待ち受けていることも知らずに。




