第18話「伊達家の内情——片倉景綱、胃を痛める」(前半)
和睦成立を告げる重々しい法螺貝の音が鳴り響いた後、伊達軍の陣営には——しんと静かな戸惑いがさざ波のように広がっていた。
陣営の入り口では、伊達成実が政宗の帰還を待ち構えていた。その隣には、数名の伊達家の重臣たちが硬い表情で並んでいる。
春の風が、陣営の旗をパタパタと静かに揺らしている。
遠くで、最上軍の陣営から「おおっ!」というどよめきのような歓声が聞こえた。
成実が、いぶかしげにわずかに眉をひそめた。
「……和睦、か」
その一言が、静かに落ちた。
伊達軍の兵士たちが、戸惑いもあらわな顔で次々と武器を下ろしている。
「本当に、戦わないのか?」
「殿が、最上と手を結んだ?」
「信じられん……」
兵士たちのざわめきが、陣営の中に静かに響いている。
そこへ——政宗と片倉景綱が、連れ立って陣営に戻ってきた。
成実が、静かに頭を下げた。
「殿。お戻りになられましたか」
政宗が、かすかに頷いた。
「ああ」
成実が、探るように少し間を置いた。そして——静かに問うた。
「……殿。和睦とは、如何様な……」
政宗が、淡々と静かに答えた。
「最上と手を結んだ。それだけだ」
その声は、拍子抜けするほど簡潔だった。
成実が、信じられないというようにわずかに目を見開いた。
「……それだけ……ですか?」
政宗の口元が、かすかに綻んだ。
「そうだ。それだけだ」
成実が、腑に落ちない様子ながらも静かに頭を下げた。
「……承知いたしました」
政宗が、そのまま陣営の奥へと歩いていく。
景綱が、その後ろに静かに続く。
——殿の顔が、いつもと違って見える。
景綱は、長年仕えてきたからこそ分かるその違和感を、静かに胸の奥に仕舞い込んだ。
景綱の、あずかり知らないところで、一体何が——あったのか。
政宗の陣幕内は、ひっそりと静まり返っていた。
春の夕日が、天幕の布を通して柔らかな茜色の光を投げかけている。
政宗が、どっかりと床几に座った。その鋭い隻眼が、どこか遠くを見つめている。
景綱が、政宗の隣に静かに立った。
しばらくの間、沈黙が続いた。
遠くで、伊達軍の兵士たちがガチャガチャと武器を片付ける音が聞こえる。
政宗が、ふと静かに口を開いた。
「——景綱」
その声は、小さかった。しかし——確実に、景綱の耳に届いた。
景綱が、静かに頭を下げた。
「はっ」
政宗が、少し間を置いた。そして——静かに問うた。
「あの従妹は、いったい、何者だと思う」
景綱が、わずかに目を見開いた。
——従妹?
景綱は、唐突なその言葉の意味を頭の中で素早く確認した。
——駒姫様のことか。
景綱が、静かに答えた。
「……最上義光様の次女、駒姫様でございます」
政宗が、呆れたように笑って続ける。
「……そんなことはわかっとるわ! 七歳であれだけ話せるか! 普通!」
その一言が、天幕の中にぽつりと落ちた。
景綱が、静かに答えた。
「駒姫様は、確かに異常な聡さをお持ちのようです」
政宗が、静かに続けた。
「豊臣の惣無事令。奥羽大同盟——七歳の幼女が、あそこまで考えるか? 考えられるものか?」
政宗の声が、わずかに熱を帯びて変わった。
冷徹な謀将の声ではなく——未知のものに対する「純粋な好奇心」を持つ人間の声だ。
——殿が、あの姫様に興味を持たれている。
景綱は、その確信を静かに飲み込んだ。
これは——まずい。非常にまずい傾向だ。
景綱が、静かに言った。
「駒姫様は、確かに聡明な姫様でございます。しかし——」
政宗が、景綱を見た。
「しかし、何だ」
景綱が、少し間を置いた。
「……いえ、何でもございません」
政宗が、面白そうにわずかに笑った。
「お前、何か言いたげだな」
景綱が、わずかに目を逸らした。
——殿が、あの姫様に興味を持たれている。これは……本当に、まずい。
政宗が、静かに立ち上がった。
天幕の外を見ている。
春の夕日が、出羽の山々を燃えるように赤く染めている。
政宗が、静かに言った。
「俺は、駒姫と文のやり取りをすることにしたぞ」
景綱が、思わずわずかに目を見開いた。
「……それは、義光殿との条件でございましたね」
政宗が、わずかに笑った。
「そうだ。まごうことなく、あの姫は異質だ……あれぞ、天から授かった才であろう。俺は、駒姫ともっと語り合いたいのだ。姫の知識の源泉はいずこから来るものなのか? 奥羽はどうあるべきなのか? そして、天下の行く末……語るべきことは山ほどあるぞ」
その一言が、天幕の中に落ちた。
景綱が、静かに政宗を見た。
——殿が、七歳の幼女と天下国家を語るか……
——これは……完全に、入れ込まれている。
景綱が、静かに言った。
「——殿、それは……」
政宗が、景綱を見た。
「何だ」
景綱が、少し間を置いた。
——言うべきか。言わざるべきか。
景綱が、葛藤の末に静かに答えた。
「……いえ、何でもございません」
政宗が、わずかに笑った。
「お前、さっきから『何でもない』ばかりではないか」
景綱が、わずかに目を逸らした。
——殿が、七歳の幼女に入れ込んでいる。これは……胃が痛い。
景綱が、静かに胃の辺りをそっと押さえた。
政宗が、景綱を見た。
「……景綱。お前、また胃を痛めておるのか」
景綱が、静かに答えた。
「……はい」
政宗が、わずかに笑った。
「お前は、昔から胃が弱いな」
——殿のせいです。
景綱は、その切実な思いを静かに、深く胸の奥に仕舞い込んだ。
政宗が、静かに続けた。
「あの従妹は——面白い。七歳とは思えぬ賢さを持っている。俺は、その賢さにすこぶる興味がある」
景綱が、静かに政宗を見た。
——殿が、「面白い」と言っている。
——殿が「面白い」と評価する人間は、そう多くない。
景綱が、静かに言った。
「……殿。駒姫様は、確かに聡明な姫様でございます。しかし——あまり近づきすぎると、義光殿が……」
政宗が、わずかに笑った。
「伯父御が、どうした?」
景綱が、静かに答えた。
「……義光殿は、駒姫様を溺愛しておられます。殿が駒姫様に近づきすぎると、義光殿が黙っていないかと」
政宗が、わずかに笑った。
「俺は、従妹である姫君と文のやり取りをするだけだ。それ以上でも、それ以下でもない」
景綱が、静かに政宗を見た。
——その顔は、絶対に入れ込んでいる顔です、殿。
景綱は、その言葉にならない思いを、重くなる胃の痛みとともに静かに胸の奥に仕舞い込んだ。




