第2話「父・義光は謀将のくせに、私にはデロデロの親バカでした。」(前半)
第2話です。駒姫が父上を手玉に取ります。
大崎合戦の報せが届いた翌朝、山形城は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
廊下を走る足音、飛び交う怒鳴り声、馬の嘶き。城全体が戦の匂いを帯びている。
私はそんな喧騒の中、布団の中でぼんやりと目を覚ました。
——さて。改めて整理しよう。
最上義光という人物について、だ。
前世の私が史学科で学んだ義光の評価は、一言で言えば「東北屈指の謀将」だった。最上家の家督を継いだ後、家中の反乱——いわゆる天正最上の乱——を鎮圧し、出羽五十七万石の礎を築いた傑物。謀略と調略を駆使して周辺勢力を切り崩し、「羽州の狐」の異名を取った。関ヶ原では上杉景勝の大軍を相手に長谷堂城で粘り抜き、東北の独立を守った武将でもある。
——そう、前世の私が知っていた最上義光は、冷徹な謀将だったはずだ。
でも現世の義光は——娘の前では、完璧に別人だ。
証拠は山ほどある。
私が三歳の時、縁側で転んで軽く膝を擦り剥いたことがあった。たいした傷ではない。泣きもしなかった。なのに義光は「医者を呼べ! 城の医者を全員呼べ! いや、京から名医を呼べ!」と大騒ぎし、家臣団が総出で「殿、擦り傷でございます」と宥めるという事態になった。
私が五歳の時、縁側で月を見上げながら「月が綺麗ですね」と言ったことがあった。ただの子供らしい一言のつもりだった。翌朝、城の庭師が十人がかりで庭を掘り返し始めた。「月見台」の増築工事が始まったのだと、侍女の小春が青い顔で教えてくれた。
私が六歳の時、「南蛮のお菓子が食べてみたい」と言ったことがあった。一ヶ月後、堺の商人から大量の南蛮菓子が届いた。家臣団の予算会議が三日間紛糾したと、後で鮭延殿がため息をつきながら話してくれた。
——羽州の狐が聞いて呆れる。娘の前では、じゃれついてくる大型犬みたいな人だ。
私は布団の中で、小さく苦笑した。
呆れている。呆れているのだが——正直に言えば、少し嬉しくないわけでもない。前世では家族とはあまり縁がなかった。だから、こんなにも全力で溺愛してくれる父親というのは、少々重いが、悪くない。
——でも今は、その「重さ」を武器に変える時だ。
その頃、山形城の表御殿では。
軍議の間に、重苦しい空気が漂っていた。
上座に座る最上義光の顔は、いつもとは別人のように引き締まっている。鋭い目が、居並ぶ家臣たちを静かに見渡した。その視線だけで、場の空気が変わる。これが「羽州の狐」の本来の顔だ。
「大崎義隆殿より急使にございます」
家臣の一人が、緊張した声で報告する。
「伊達政宗、大崎領への侵攻を開始。すでに数城が落とされ、義隆殿は援軍を強く求めておられます」
義光の目が、細くなった。
「……政宗め」
低く呟いた声に、家臣たちが一斉に背筋を伸ばす。普段の親バカ全開の声とは、まるで別人の低音だ。
「大崎は義兄の家。我が妻・妙の実家でもある。見捨てるわけにはいかぬ」
上座の脇に控えていた鮭延秀綱が、静かに進み出た。
年齢は五十に手が届こうかという頃合い。白いものが混じり始めた髪と髭、しかし目だけは鷹のように鋭い。最上家の北の要、鮭延城を本拠とする重臣だ。
「殿、まずは情報の精査を。伊達軍の兵数、進軍路、大崎方の残存兵力——確かめるべきことが多うございます。拙速は禁物かと」
「わかっておる」
義光は短く答えた。しかし、その目はすでに決意の色を帯びていた。
そこへ、廊下から侍女の声が届いた。
「殿、姫様がお目覚めになりました」
一瞬の、沈黙。
義光の顔が——ゆっくりと、変わった。
「駒が!?」
立ち上がりかけた義光の袖を、鮭延が素早く掴んだ。
「殿!! 今は軍議の最中でございます!!」
「すぐ戻る」
「殿っ!」
鮭延の必死の制止も虚しく、義光はほぼ走るような足取りで軍議の間を出ていった。
残された家臣たちが、一斉に鮭延を見る。
鮭延は深く、深く、息を吐いた。
——殿が軍議を抜け出されるのは、これで今月三度目でございます……。
廊下を歩いてくる足音で、父上だとわかった。
他の誰とも違う、大きくて、少し急いでいる足音。
「駒ー! 父じゃぞ! 昨夜はよく眠れたか! 顔色はどうじゃ!」
障子が開いた瞬間、義光の顔は完全に「謀将モード」から「親バカモード」に切り替わっていた。この変貌の速さは、もはや芸術の域だと思う。
「おはようございます、父上」
「おお! 今日も可愛いのう、駒は! 何か食べたいものはないか! 欲しいものはないか! わしに何でも言え!」
——お父様、今は軍議中のはずでは?
「……大崎のことは、大丈夫なのですか?」
義光の顔が、一瞬だけ引き締まった。でもすぐに「大丈夫じゃ大丈夫じゃ! 駒は何も心配せんでよい! 大崎じゃろうと伊達じゃろうと、わしが全部蹴散らしてやる!」と豪快に笑った。
——お父様、それが問題なのですよ。
「……駒は、父上のことが大好きです」
「ぬおっ……!! か、可愛いやつめ……!!」
義光は顔を真っ赤にして、のたうち回りたそうな表情を必死に堪えた。大の大人が、しかも「羽州の狐」と恐れられる謀将が、七歳の娘の一言でこの有様だ。
——使える。本当に、使える。心の中でほくそ笑む私。
義光がようやく軍議に戻った後、廊下に一人の人物が残っていた。
鮭延秀綱だ。
彼は深々と頭を下げた。
「姫様、殿がご迷惑をおかけしております」
「迷惑だなんて。父上のことは大好きですから」
私は愛らしく微笑んだ。七歳の姫として、完璧な笑顔のつもりだ。
しかし鮭延の目は、私の笑顔の奥を見ようとしていた。老練な武将特有の、静かで鋭い観察眼。この人は、ただの苦労人ではない。
——前世の記憶によれば、鮭延秀綱は最上家の重臣として義光を支え続けた人物だ。北の要を守り、関ヶ原でも奮戦した。義光の信頼は厚く、家中でも一目置かれる存在だった。
「……姫様は」
鮭延が、静かに口を開いた。
「大崎の家のことを、ご存知でしょうか」
私は一瞬だけ目を細めた。
これは試されている。七歳の姫がどこまで知っているか、どこまで理解しているか——この老将は、それを測ろうとしている。
「……少しだけ。母上の御実家でしょう?」
私は答えた。
鮭延の目が、わずかに変わった。「少しだけ」という言葉の重さを、この人はきちんと受け取った。
「……そうでございますか」
短い沈黙が流れた。鮭延は何かを言いかけて、やめた。まだ様子を見ようという判断だろう。それでいい。
「姫様は……賢いお方でございますな」
「父上の娘ですから」
鮭延の口元に、かすかな苦笑いが浮かんだ。
——それだけではないような気がするのだが、と、その目が言っていた。
私は内心で静かに頷いた。
——鮭延殿、あなたはいずれ私の最初の協力者になってくれる人だ。前世の記憶がそう言っている。今日のところは、これで十分です。




