第2話「父・義光は謀将のくせに、私にはデロデロの親バカでした。」(前半)
第2話です。駒姫が父上を手玉に取ります。
地の文を中心に改稿しました(4/30)
大崎合戦勃発の報せが届いた翌朝、山形城はまさに蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
板張りの廊下をドタバタと駆け抜ける足音、あちこちで飛び交う切羽詰まった怒鳴り声、そして遠くから聞こえる馬のいななく声。城全体が、ピリピリとしたむせ返るような戦の匂いを帯びている。
私はそんなけたたましい喧騒の中、ふかふかの布団の中でぼんやりと目を覚ました。
——さて。改めて頭の中を整理しよう。
最上義光という、私のお父様について、だ。
前世の私が大学の史学科で学んだ最上義光の歴史的評価は、一言で言えば『東北屈指の謀将』だった。最上家の家督を継いだ後、身内の反乱——いわゆる天正最上の乱——を冷酷に鎮圧し、出羽五十七万石という広大な領地の礎を築き上げた傑物。謀略と調略を息をするように駆使して周辺勢力を次々と切り崩し、『羽州の狐』という恐ろしげな異名を取った男。のちの関ヶ原の戦いでは、上杉景勝の大軍を相手に長谷堂城でしぶとく粘り抜き、東北の独立を死守した猛将でもある。
——そう、前世の私が知識として知っていた最上義光は、血も涙もない冷徹な謀将だったはずなのだ。
でも、現世の義光——私のお父様は——娘の私の前では、完璧に別人と化す。
証拠なら、それこそ山ほどある。
私がまだ三歳の時、縁側で転んで軽く膝を擦り剥いたことがあった。血が滲む程度のたいした傷ではないし、私は泣きもしなかった。それなのに、お父様は「医者を呼べ! 城下の医者を全員呼べ! いや、京から名医を呼べ!」と半狂乱で大騒ぎし、家臣団が総出で「殿、ただの擦り傷でございます!」と必死に宥めるという大惨事になった。
私が五歳の時、縁側で夜空の月を見上げながら「月が綺麗ですね」とぽつりと言ったことがあった。ただの子供らしい、ちょっと風流を気取った一言のつもりだった。しかし翌朝、城の庭師が十人がかりで庭をドカドカと掘り返し始めたのだ。『姫様のための月見台』の増築工事が急遽始まったのだと、侍女の小春が真っ青な顔で教えてくれた。
私が六歳の時、ふと「南蛮のお菓子が食べてみたい」とこぼしたことがあった。すると一ヶ月後、遠く離れた堺の商人から、見たこともないような大量の南蛮菓子が山のように届いた。その支払いのため、家臣団の予算会議が三日間も紛糾したのだと、後で鮭延殿が深いため息をつきながらこっそり教えてくれた。
——『羽州の狐』が聞いて呆れる。娘の前では、尻尾をちぎれんばかりに振ってじゃれついてくる大型犬みたいな人だ。
私は布団の中で、小さく、けれど自然と苦笑いをこぼした。
呆れている。本当に呆れているのだが——正直に言えば、少し嬉しくないわけでもない。前世の私は、家族の愛情とはあまり縁がない人生だった。だから、こんなにも全身全霊で全力で溺愛してくれる父親の存在というのは、少々……いや、かなり重いけれど、決して悪くはない。
——でも今は、そのありがたい『重さ』を、最大限の武器に変える時だ。
ちょうどその頃、山形城の表御殿では。
軍議の間には、息が詰まるような重苦しい空気がどんよりと漂っていた。
上座にどっかりと座る最上義光の顔は、私に見せるだらしない顔とは別人のように引き締まっている。獲物を狙うような鋭い目が、居並ぶ家臣たちを静かに見渡した。ただその視線が動いただけで、場の空気がピリッと凍りつく。これこそが、他国から恐れられる『羽州の狐』の本来の顔なのだ。
「大崎義隆殿より急使にございます」
家臣の一人が、極度の緊張で震える声で報告する。
「伊達政宗、大崎領への侵攻を開始。すでに数城が落とされ、義隆殿は援軍を強く求めておられます」
お父様の目が、スッと細くなった。
「……政宗め」
地を這うように低く呟いたその声に、家臣たちが一斉にビクッと背筋を伸ばす。普段の「駒ー!」と叫ぶ親バカ全開の甲高い声とは、まるで別人のような恐ろしい低音だ。
「大崎は義兄の家。我が妻・妙の実家でもある。見捨てるわけにはいかぬ」
上座の脇に控えていた鮭延秀綱が、静かに進み出た。
年齢は五十に手が届こうかという頃合い。白いものが混じり始めた髪と髭を蓄えているが、その目だけは獲物を狙う鷹のように鋭く澄んでいる。最上家の北の要衝、鮭延城を本拠とする、家中でも一目置かれる重臣だ。
「殿、まずは情報の精査を。伊達軍の兵数、進軍路、大崎方の残存兵力——確かめるべきことが多うございます。拙速は禁物かと」
「わかっておる」
お父様は短く、重々しく答えた。しかし、その目はすでに戦場を見据える決意の色を帯びていた。
——そこへ、廊下から侍女の遠慮がちな声が届いた。
「殿、姫様がお目覚めになりました」
一瞬の、沈黙。
お父様の顔が——ゆっくりと、しかし確実に、変わった。
「駒が!?」
ガタッ! と勢いよく立ち上がりかけた義光の袖を、鮭延が素早く、かつ力強く掴んだ。
「殿!! 今は軍議の最中でございます!!」
「すぐ戻る」
「殿っ!」
鮭延の必死の制止も虚しく、義光はほぼ走るようなドタバタとした足取りで、あっという間に軍議の間を出ていってしまった。
ぽつんと残された家臣たちが、同情の籠もった目で一斉に鮭延を見る。
鮭延は深く、深く、胃の痛みを堪えるように息を吐いた。
——殿が愛娘のために軍議を抜け出されるのは、これで今月三度目でございます……。
廊下をドスドスと歩いてくる足音で、すぐにお父様だとわかった。
他の誰とも違う、大きくて、やけに急いでいる足音。
「駒ー! 父じゃぞ! 昨夜はよく眠れたか! 顔色はどうじゃ!」
バンッ! と障子が開いた瞬間、お父様の顔は完全に『謀将モード』から『親バカモード』へと切り替わっていた。この見事なまでの変貌の速さは、もはや一種の芸術の域に達していると思う。
「おはようございます、父上」
「おお! 今日も可愛いのう、駒は! 何か食べたいものはないか! 欲しいものはないか! わしに何でも言え!」
——お父様、今は一刻を争う軍議の真っ最中だったはずでは?
「……大崎のことは、大丈夫なのですか?」
私が小首を傾げて尋ねると、お父様の顔が、一瞬だけ武将のものに引き締まった。でもすぐに「大丈夫じゃ大丈夫じゃ! 駒は何も心配せんでよい! 大崎じゃろうと伊達じゃろうと、わしが全部蹴散らしてやる!」と豪快にガハハと笑った。
——お父様、だからそれが一番の問題なのですよ。
「……駒は、父上のことが大好きです」
「ぬおっ……!! か、可愛いやつめ……!!」
お父様は顔をゆでダコのように真っ赤にして、その場でのたうち回りたそうな衝動を必死に堪えていた。大の大人が、しかも他国から『羽州の狐』と恐れられる謀将が、七歳の娘のたった一言でこの有様である。
——使える。本当に、この溺愛っぷりは使える。私は心の中で、黒くほくそ笑んだ。
お父様が名残惜しそうにようやく軍議に戻っていった後、廊下には一人の人物が残っていた。
鮭延秀綱殿だ。
彼は私に向かって、深々と頭を下げた。
「姫様、殿がご迷惑をおかけしております」
「迷惑だなんて。父上のことは大好きですから」
私は小首を傾げ、愛らしく微笑んだ。七歳の無邪気な姫として、完璧な笑顔を作ったつもりだ。
しかし、鮭延殿の目は、私のその笑顔の奥底を見透かそうとしていた。老練な武将特有の、静かで、それでいて恐ろしく鋭い観察眼。この人は、ただ胃を痛めているだけの苦労人ではない。
——前世の記憶によれば、鮭延秀綱は最上家の重臣として、生涯お父様を支え続けた忠義の人物だ。北の要衝を守り抜き、関ヶ原の戦いでも獅子奮迅の活躍を見せた。お父様からの信頼も非常に厚く、家中の誰もが一目置く存在だったはず。
「……姫様は」
鮭延殿が、探るように静かに口を開いた。
「大崎の家のことを、ご存知でしょうか」
私は、一瞬だけスッと目を細めた。
これは、試されている。ただの七歳の姫が、今の情勢をどこまで知っているか、どこまで理解しているか——この老将は、私の底を測ろうとしているのだ。
「……少しだけ。母上の御実家でしょう?」
私は、あえて少しだけ意味深に答えた。
鮭延殿の目の色が、わずかに変わった。「少しだけ」という言葉に込められた含みと重さを、この賢明な老将はきちんと受け取ったようだ。
「……そうでございますか」
二人の間に、短い沈黙が流れた。鮭延殿は何かを言いかけて、やめた。まだ深くは踏み込まず、様子を見ようという判断だろう。今はそれでいい。
「姫様は……賢いお方でございますな」
「父上の娘ですから」
私がにっこりと笑うと、鮭延殿の口元に、かすかな苦笑いが浮かんだ。
——それだけではないような気がするのだが、と、その鋭い目が雄弁に語っていた。
私は内心で、静かに力強く頷いた。
——鮭延殿、あなたはいずれ、私の最初の強力な協力者になってくれる人だ。前世の記憶がそう教えてくれている。今日のところは、この種まきだけで十分です。




