第8話「親バカ義光、娘の涙に即座に出陣を躊躇う(家臣団ドン引き)」(前半)
いよいよ最強の叔母様登場です。
斥候の声が、夜明け前の陣に響き渡った。
「申し上げます! 義姫様の御一行、只今、両軍の間の街道に差し掛かっておられます!」
——早い。
私は、氏家と顔を見合わせた。
昼前のはずだった。留守政景の密書には、確かにそう書いてあった。それが——夜明けにも待たず、動いていた。
——(さすが叔母上! あなたは本当に、最初からお見通しだったんですね)
陣の中が、一気に騒がしくなった。物見の兵が走り、鎧の触れ合う音が夜の静寂を切り裂く。篝火が揺れ、橙色の光が慌ただしく動く人影を照らし出す。
そして——天幕の布が、勢いよく開いた。
義光が出てきた。
黒塗りの胴丸はそのままだが、髷がわずかに乱れている。寝起きだ。しかしその目は——すでに完全に醒めていた。「羽州の狐」の目だ。状況を把握しようとする、鋭い謀将の目。
「何事だ」
低い声で義光が問う。鮭延が素早く前に出た。
「義姫様の御一行が、両軍の間の街道に差し掛かっておられるとのことです」
義光の眉間に、深い皺が寄った。
「……義が? なぜ義が——」
その言葉が、途中で止まった。
義光の視線が、素早く周囲を走った。陣の中を見回し——私を、見つけた。
その瞬間だった。
「謀将」の目が、コンマ一秒で消えた。代わりに浮かんだのは——昨夜と同じ、「父親」の顔だ。
「……駒を城に帰せ。今すぐだ」
鮭延が「殿、義姫様の対応が——」と言いかけた。
「駒が先だ」
義光が、静かに言い切った。
陣の中に、一瞬の沈黙が落ちた。
——お父様。今は義姫様の対応が先です。どう考えても。でもこの人は、私を見た瞬間に父親に戻ってしまう。……本当に重症だ。
鮭延が、小声で氏家に囁いた。
「……氏家殿。いつもこうですか」
氏家が、静かに答えた。
「……左様にございます」
鮭延の顔が、「もう慣れるしかないか」という諦めの色に染まっていくのが、夜明け前の薄明かりの中でもはっきりわかった。
「帰りません」
私は、義光の目を真っ直ぐに見て言い切った。
義光の眉が、わずかに動く。
「危ない。ここは戦場だ」
「義姫様が来てくださいました」
私は静かに続けた。「この場に駒がいることに、意味があります」
義光が、私を見た。「謀将」の目が、少しだけ戻ってきている。
「……なぜ義が来ることを知っておる」
——来た。ここだ。
私は、少しだけ間を置いた。
「昨夜、伊達軍の陣から密書が届きました」
義光の顔が、止まった。
「留守政景殿からのものです。義姫様が向かっておられると——そう書いてありました」
静寂が落ちた。
夜明け前の陣の静寂は、昼間のそれとは質が違う。篝火の燃える音が、やけにはっきり聞こえる。
「……なぜ、俺に言わなかった」
義光の声は、低かった。怒っていない。しかし——何か、深いところが揺れている声だ。
「お父様はすでにお休みになっていました」
私は答えた。「それに——義姫様が来ることは、お父様の判断を変えるものではありませんでした。お父様はすでに『もう一日待つ』とおっしゃっていましたから」
義光が、長い沈黙に入った。
——これは、少し怒らせたかもしれない。謀将として、情報を後から知らされることは——プライドに触る。
私は内心でそう思いながら、義光の顔を静かに観察した。
しかし義光の顔に浮かんだのは、怒りではなかった。
苦い顔だった。複雑な、苦い顔。「謀将」として「娘に先を越された」という——どこか誇らしくて、どこか悔しい、そういう顔だ。
長い沈黙の後、義光は低く言った。
「……わかった。傍を離れるな」
——怒らなかった。
私は、静かに息を吐いた。
——お父様は、私が正しい判断をしたとわかっている。だから怒れない。……本当に、親バカな謀将だ。
夜明けの光が、出羽の空を薄く染め始めた頃。
陣門の前に、駕籠が止まった。
護衛の騎馬が十数騎。静かな到着だった。馬の息が白い霧になって、春の朝の空気に溶けていく。
駕籠の戸が、静かに開いた。
出てきたのは——四十代の、妖艶という言葉が似合いそうな女性だった。裾をさばきながら籠を降りると、まず私に目を合わせた。
義光と同じ切れ長の目。しかし義光より、感情が表に出る顔だ。黒い小袖に薄い鎧直垂を羽織り、腰に短刀を差している。夜明けの薄明かりの中でも、その存在感は揺らがない。地に足がついた瞬間から、その人の周囲の空気が変わった気がした。
——この人が、義姫様だ。
私は、その人をじっと見つめた。
——美人だけど、思ったより怖い顔をしている。いや、怖いというより——鋭い。この人は今、私を『値踏み』している。
義姫が陣門の前に立ち、義光を見た。
義光が、わずかに表情を変えた。
「……義」
その一言に、複雑なものが滲んでいた。安堵と、気まずさと——妹への、兄の感情。
義姫が義光を見て——次に、駒を見た。
その目が、一瞬だけ止まった。
「兄上。久しぶりですね」
義姫が、静かに口を開いた。
「……ああ」
義光の声が、わずかに硬い。
義姫の視線が、再び私に向いた。義光への挨拶より先に——私を確認するように。
「……あなたが、駒姫ですか」
「はい」
私は頭を下げた。「初めてお目にかかります、叔母上」
義姫が、私を上から下まで、静かに見た。
「……思ったより、小さいですね」
——それは言わなくていいです、叔母上。
私は内心でそう思いながら、できるだけ穏やかな顔を保った。七歳の身体は正直だ。この人の視線には、何か——背筋が伸びるような、そういう重みがある。
横で義光が、少し複雑な顔をしていた。妹が自分より先に娘を見た、その微妙な「負けた感」が、横顔に滲んでいる。
——お父様、そこで拗ねないでください。




