第7話「父上を説得せよ!『お父様、お怪我をされたら駒は悲しいです』」(後半)
「殿、よろしいでしょうか」
天幕の外から、静かな声がかかった。
氏家守棟の声だ。
「……入れ」
義光が低く言うと、天幕の布が静かに開いた。氏家が、一通の書状を手に入ってきた。深く頭を下げたまま、義光の前に差し出す。
「斥候からの報告にございます。伊達軍の後方に、豊臣の間者と思われる者の影が確認されました」
義光の顔が、一瞬で変わった。
「父親」の顔が消え、謀将の顔が戻ってくる。しかし今度は——先ほどとは違う。何かを「確認した」時の、静かな鋭さだ。
「……間者だと」
「左様。この戦が長引けば、南の方々に東北の内情を知られることになりましょう」
氏家が、静かに続けた。
「姫様のおっしゃる通り——惣無事令に反する戦を、秀吉殿に見せることになります。それは……」
義光が、氏家を見た。
氏家が、静かに頭を下げた。
「姫様の御慧眼、恐れ入りまする。——殿もそう思われませぬか」
天幕の中に、長い沈黙が落ちた。
——氏家殿。ナイスフォロー。
私は、胸の中で静かに呼びかけた。
——あなたは最初から、わかっていたのですね。私が何をしようとしているか。それでも黙って見ていてくれた。そして今、一番必要な瞬間に、一番必要な言葉を入れてくれた。
義光が、ゆっくりと立ち上がった。
天幕の中を、一歩、二歩と歩く。篝火の明かりが、その横顔を照らす。
やがて義光は、低く、静かに言った。
「……氏家。明日の出陣を、もう一日待て」
「……承知いたしました」
氏家が、深く頭を下げた。
義光が、苦い顔で私を見た。
「……七歳の娘に、わしが言い負かされるとは思わなかったわ」
その声には、怒りではなく——どこか、呆れと諦めと、それから少しの誇らしさが混ざっていた。
私は、できるだけ素直な顔で頭を下げた。
「ありがとうございます、お父様」
義光が眠りについたのは、夜半を過ぎた頃だった。
初めての戦場と、慣れぬ事々に興奮していた私は、なかなか寝付けずに天幕の外に出た。出羽の夜空が広がっていた。星が多い。城の中からは、こんなに星は見えない。
篝火が、低く燃えている。陣の中は静かだ。物見の兵が遠くを歩いているのが、影になって見える。
氏家が、隣に立った。
「……よくやられました、姫様」
「守棟こそ」
私は空を見上げたまま答えた。「あの一言がなければ、どうなっていたかわかりません」
「いいえ」
氏家が、静かに首を振った。
「殿は、姫様の言葉だけで、すでに揺れておられました。私はただ——最後の一押しをしたに過ぎませぬ」
私は少し考えてから、言った。
「……氏家殿。先ほどの書状の件ですが」
「はい」
「伊達軍の陣からの書状——今、開けてもよいでしょうか」
氏家が、静かに頷いた。
私は懐から書状を取り出した。蝋で封じられている。封を切ると、中から折り畳まれた紙が出てきた。
広げる。
文字を追う。
——留守政景。
差出人の名に、私は目を止めた。留守政景——伊達軍の総大将。政宗の叔父にあたる人物だ。
内容を読む。
読んで——私は、しばらく動けなかった。
「……姫様?」
氏家が、静かに問いかけた。
私は書状を氏家に差し出した。氏家が受け取り、目を通す。その顔が、わずかに動いた。
「……義姫様が、こちらに向かっておられる」
「はい」
私は、もう一度空を見上げた。
「明日の昼前には——両軍の間に、到着される予定だと」
氏家が、静かに書状を折り畳んだ。
「……義姫様は、もとよりこの戦を止めるつもりでいらしたのかもしれません」
氏家の声は、穏やかだった。
「姫様の文は——消えかけていた火を、もう一度灯したのでしょう。火に油を注いだのではなく」
私は、その言葉を胸の中で繰り返した。
——消えかけていた火を、灯した。
「……叔母上は、最初から動くつもりだったのですね」
「左様」
氏家が、静かに答えた。
「——姫様は、一人ではありませぬ」
その言葉が、夜の空気の中に溶けていった。
私は、長い息を吐いた。
——そうか。一人じゃなかった。義姫様は、私が文を書く前から、動こうとしていた。私の文は、その決断を後押ししただけだ。
——でも。それでいい。
一人で全部やる必要は、ない。使えるものは使う。動いてくれる人の力を借りる。それが——生き延びるための、正しいやり方だ。
出羽の夜風が、篝火の炎を揺らした。
——明日。叔母上が来る。
そして——本当の勝負が、始まる。
その時だった。
夜明け前の静寂を、馬の蹄の音が破った。
一頭ではない。複数の馬が、陣に向かって駆けてくる音だ。
物見の兵が声を上げる。陣の入口が、騒がしくなった。
やがて——天幕の布が勢いよく開き、息を切らせた斥候が飛び込んできた。
「申し上げます! 義姫様の御一行、只今——」
私は、氏家と顔を見合わせた。
——早い。
予定より、ずっと早い。
義姫様は、昼前どころか——夜明けにも待たず、動いていた。




