第7話「父上を説得せよ!『お父様、お怪我をされたら駒は悲しいです』」(前半)
陣の夕暮れは、城のそれとは全く違う色をしていた。
篝火が点々と灯り始めた義光の陣。橙と赤が混ざり合う空の下で、鎧武者たちが無言で持ち場を固めている。遠くでは馬が嘶き、鉄の匂いと焚き木の煙が混ざり合って、鼻の奥に張り付いてくる。
——これが、夕暮れ時の陣なんだ……。
昼間の軍議乱入からこっち、私は陣の隅に設けられた小さな天幕の前で、ぼんやりと空を眺めていた。鮭延が「姫様はこちらでお待ちください」と言い残して去ってから、もうどれくらい経つだろう。
隣では氏家が、静かに立っている。この人は本当に、無駄な言葉を使わない。
——伊達軍の陣からの書状。
懐の中に、それがある。まだ開けていない。義光に見せるべきか、先に自分で確認すべきか——迷っているうちに、陣幕の方から足音が近づいてきた。
大きな足音だ。
「……駒」
振り返る前に、声でわかった。
義光が、陣幕から出てきていた。昼間の軍議の時とは違う。黒塗りの胴丸はそのままだが、顔から「謀将」の仮面が、きれいに剥がれ落ちていた。代わりに浮かんでいるのは——心配と、安堵と、それから少しの困惑が混ざった、どこにでもいる「父親」の顔だ。
——やっぱり、お父様はこういう人だ。
謀将の顔と父親の顔が、こんなに簡単に切り替わる。「羽州の狐」の二つ名は伊達じゃないと思っていたが、娘の前ではこうも素直に崩れるとは。
義光は大股で歩み寄ってきて——そのまま、私を抱き上げた。
「なぜ来た。危ないではないか」
先程と同じセリフを繰り返す。低い声だが、怒っていない。心配している声だ。
遠くで鮭延が「……殿、軍議の続きが」と言いかけた。
「うるさいわ」
義光の一言で、鮭延が黙った。
——鮭延殿、ご愁傷様です。
私は義光の腕の中から、できるだけ落ち着いた顔で義光を見上げた。七歳の身体は、こういう時に正直だ。抱き上げられると——少し、安心してしまう。それが悔しいのだが、どうにもならない。
「……駒。お前は本当に、心の臓に悪い子だ」
義光が、低く呟いた。失敬な!
——それはこちらの台詞です、お父様。
夜が深まるにつれ、陣の空気は静かになっていった。
義光が「今夜はここにいろ」と言い、私のために小さな天幕が用意された。篝火の明かりが揺れる中、義光と私は二人きりで向かい合っている。氏家は天幕の外に控えていた。
義光は床几に腰を下ろし、私は敷かれた毛皮の上に座っている。しばらく、どちらも口を開かなかった。
——さて。どこから切り込むか。
策を仕掛ける前に、一つだけ、本当のことを聞いておきたかった。
「……お父様」
「何だ」
「お父様は、なぜ伯父上(大崎義隆)を助けようとしているのですか?」
義光の眉が、わずかに動いた。
予想外の問いだったのだろう。謀将の目が、一瞬だけ揺れた。
「……なぜ、そんなことを聞く」
「知りたいのです」
私は真っ直ぐに答えた。「お父様が何のために戦おうとしているのか。駒には、それがわかりません」
義光が、長い沈黙に入った。
篝火が揺れる。天幕の布が、夜風にかすかに揺れる。
やがて義光は、静かに口を開いた。
「……義隆は、頼りない男だ」
低い声だった。
「家臣の内紛一つ、自分では収められぬ。重臣が政宗に泣きついて、余計に事を大きくしおった。そういう男だ」
「……はい」
「だが」
義光の目が、遠くを見た。
「妙が嫁いでくる時——一番泣いていたのが、義隆だった」
私は、息を止めた。
——妙。私の母の名だ。
「妹が遠くへ嫁ぐのが、よほど寂しかったのだろう。見送りの日、あの男は武将の面目も忘れて、子供のように泣いた。……頼りない男だが、そういう男を、見捨てられるか」
義光の横顔に、静かな何かが滲んでいた。
——ああ。
この人は、義理と情で動く人だ。面子だけじゃない。妹(義姫)への愛情と全く同じ構造で、義弟を守ろうとしている。「身内は守る」——それが、最上義光という人間の、一番深いところにある原則なのだ。
——お父様。あなたは本当に、身内に甘い人だ。それが、あなたの強さでも弱さでもある。
私は静かに、その言葉を胸の中に仕舞った。
夜が更けた。
篝火の勢いが落ち、天幕の中の影が濃くなっていく。義光が「そろそろ休め」と言いかけた、その時だった。
「……お父様、一つお願いがあります」
義光の動きが、止まった。
私は義光の目を、真っ直ぐに見た。七歳の目で、真剣に。
「政宗従兄様と、戦わないでください」
静寂が落ちた。
義光の顔が、ゆっくりと固くなっていく。「父親」の顔の下から、「謀将」の顔が滲み出てくる。
「……それは簡単には頷けぬことだ。義隆を見捨てることになる」
「見捨てることには、なりません」
私は静かに言い返した。
「私、伯母上(義姫様)に文を出しました。伯母上が動けば、政宗お兄様は止まります。戦わずに、伯父上をお守りする道があります」
「それは——」
「お父様」
私は、一歩前に出た。
——ここだ。感情の入口。あざとさ全開モード!
「お父様がお怪我をされたら、駒は悲しいです」
声が、わずかに震えた。
演技ではなかった。本当に、震えていた。
——ごめんなさい、お父様。これは本当の気持ちでもあるし、策でもある。でも——どちらが嘘かと言えば、どちらも嘘じゃない。
義光の顔が、揺れた。「謀将」の仮面に、ひびが入る。
「政宗お兄様も、お怪我をされるかもしれません。伯母上も悲しまれます」
私は続けた。声を、できるだけ静かに保ちながら。
「みんな身内です。身内が傷つくのを、駒は見たくありません。——それだけです」
義光が、口を開きかけた。
閉じた。
また、開きかけた。
その目に——わずかに、光るものが見えた。
「……駒」
「はい」
「お前は……ずるい子だな」
義光の声は、低くて、かすかに掠れていた。
ずるいと言われようと何だろうと、処刑回避のためにはなりふり構っていられないんですよ、お父様!
——(わかっている。娘の言葉に揺れている自分が、情けない。だが——)
義光の内心が、その横顔に滲んでいた。謀将が、父親に、じわじわと負けていく。その瞬間を、私は静かに見ていた。
「わかった、わかったから——」
義光が言いかけた、その時だった。




