第6話「このままでは両家共倒れ。幼女、初めての軍議に乱入する」(前半)
七歳の幼女が戦場近くの陣まで出張ります……
太鼓の音は、思ったより近かった。
氏家の前に乗せてもらい、その両腕に包まれるようにして、私は出羽の朝の空気を肺に吸い込んだ。春とはいえ、東北の夜明けはまだ冷たい。吐く息が白く、馬の鼻息も白い霧になって消えていく。
——本当は、自分で乗りたかった。
乗馬の稽古は、三つの頃から続けている。父・義光が「最上の姫は馬に乗れねばならぬ」と言い張って、侍女たちの猛反対を押し切って始めさせたものだ。おかげで同年代の姫君よりは多少たしなんでいる自信があるが——氏家の馬は、七歳の私には少々大きすぎた。
悔しいが、今日のところは我慢しておく。
遠くで、また太鼓が鳴った。
——斥候同士の小競り合いだ。本格的な衝突ではない。でも、それが「まだ」というだけで、「もう始まっている」ことに変わりはない。
背後の氏家が、静かに口を開いた。
「姫様……陣に着いたら、殿は必ずお怒りになります」
「わかっています」
私は前を向いたまま答えた。
——わかっている。義光は怒る。当然だ。戦場近くの陣に、七歳の娘が押しかけてくるなど、普通に考えれば正気の沙汰ではない。
でも。
——義光は謀将だ。正論では動かない。でも娘の涙には弱い。その弱さを、今日は使わせてもらう。お父様、ごめんなさい。
氏家は、それ以上何も言わなかった。
ただ——馬が小さな段差を越えた瞬間、氏家の腕がわずかに私を引き寄せた。言葉ではない、無言の「護る」という動作だった。
夜明けの薄紅の光の中、遠くに陣の篝火が見えてきた。
義光の陣は、山形城から南へ半日ほど下った丘の上にあった。
近づくにつれ、陣の規模が見えてくる。旗指物が林立し、鎧武者たちが陣幕の周囲を固めている。馬の嘶き、兵たちの低い声、金属が触れ合う音——城の中とは全く違う、張り詰めた空気が漂っていた。
——これが、戦場の空気か。
正直に言えば、足がすくんだ。
七歳の身体は正直だ。頭でいくら「大丈夫」と言い聞かせても、この肌を刺すような緊張感には、素直に反応してしまう。
でも——足を止めるわけにはいかない。
陣の入口で、番兵が槍を構えて行く手を塞いだ。
「何者だ!」
氏家が馬を止め、静かに告げる。
「最上家家臣、氏家守棟。大殿の陣中見舞いのため、駒姫様をお連れ致した」
番兵の顔が、「え?」という表情になった。
そこへ、陣幕の中から人が出てきた。
「氏家殿! いったい何の——」
鮭延秀綱だった。二十五歳、最上家の猛将。その精悍な顔が、馬の上の私を見た瞬間、みるみる青ざめていった。
「駒姫様!? なぜここに!」
氏家が馬から降り、私を抱えて地面に降ろした。私は着地しながら、鮭延を真っ直ぐに見た。
「秀綱」
「し、しかし殿が今まさに軍議の最中で……! 姫様をこのような場所に——氏家殿! あなたは何を考えているのですか!」
鮭延の内心が、顔に全部出ていた。
——氏家め、本当に連れてきたのか、という顔だ。
氏家は深く頭を下げたまま、微動だにしない。この人はこういう時、絶対に言い訳をしない。それが、かえって鮭延を追い詰めているのだが。
「秀綱殿、申し訳ない。しかし——」
氏家が言いかけた、その時だった。
陣幕の中から、低い怒声が飛んできた。
「誰だ、外で騒いでおるのは! 軍議の最中であるぞ!」
義光の声だ。
鮭延が「も、申し訳ありません、実は——」と言いかけた。
その瞬間、私は陣幕をくぐった。
陣幕の中は、想像より広かった。
地図が広げられた床几を中心に、鎧武者が十数人、円座を組んでいる。鉄と革と汗の匂い。燃え残った松明の煙。全員が、突然現れた小さな影——私——に視線を向けた。
その視線の中央に、義光がいた。
大柄な身体に黒塗りの胴丸。鋭い眼光。「羽州の狐」と恐れられる男の、戦場の顔だ。
その顔が、私を見た。
「何者だ」という表情が——コンマ一秒で、崩れた。
「……駒ッ!?」
陣幕の中が、静まり返った。
十数人の鎧武者が、全員固まっている。
——思ったより静かだ。これは「呆気に取られている」やつだ。好機。
私は一歩、前に出た。
「駒、なぜここに! 危ないではないか!」
義光が立ち上がりかける。その顔は、もう完全に「父親」の顔だ。謀将の顔が、どこかに吹き飛んでいる。
私は義光の目を、真っ直ぐに見た。
「お父様に、お会いしたかったのです」
義光の動きが、止まった。
私は続けた。声が、わずかに震えた。演技ではなく、本当に震えていた。七歳の身体は、やはり正直だ。
「お父様が……お怪我をされたら、駒は悲しいです」
静寂が落ちた。
陣幕の中の空気が、ぴたりと止まったような気がした。
義光の顔が——みるみる崩れていく。謀将の顔が、父親の顔に、じわじわと塗り替えられていく。その様子を、十数人の家臣団が固唾を呑んで見守っている。
後ろで、鮭延が天を仰いだ気配がした。氏家は深く頭を下げたまま、微動だにしない。
「……駒」
義光が、低く呟いた。「父は怪我などせぬ。心配するな」
——来た。
私は静かに息を吸った。ここだ。感情の入口を開いた。次は——理屈の出口を作る番だ。
「でも……」
「お父様と政宗従兄様が戦えば、どちらかが必ず傷つきます」
義光の眉が、わずかに動いた。
「身内同士で傷つけ合えば……南の方々が、喜ぶだけです」
陣幕の中の空気が、変わった。
家臣団の何人かが、顔を見合わせる。低い、ざわめきが広がる。
——「南の方々」。豊臣秀吉のことを、七歳の幼女が口にした。それが何を意味するか、この場の全員がわかっている。
義光の眉間に、深い皺が寄った。
——(南の方々。秀吉のことを言っているのか、この子は)
その目が、私を見ている。「謀将」の目だ。「父親」の目ではなく——「最上義光」の目が、私を見ている。
氏家が、静かに一歩前に出た。頭を下げたまま、低く言う。
「……姫様のおっしゃる通り、惣無事令に反すれば、豊臣に介入の口実を与えることになりましょう。この戦、長引けば長引くほど、南の利となりまする」
短い、しかし重い一言だった。
——守棟殿。ありがとうございます。
私の言葉に「重み」を添えてくれた。七歳の幼女の言葉と、義光の重臣の言葉では、受け取られ方が違う。それをわかって、この人は動いてくれたんだ。




