Call.9「料理長の腐敗は、重大なコンプライアンス違反です」
魔王城の通信インフラを物理的に切り刻み、SEのドキュメント作成に徹夜で付き合ったあの日から、数週間が経過していた。
魔王城の地下最下層にある『お客様相談室』。
私はいつものパイプ椅子に深く腰掛け、胃の辺りをさすりながら、ふとこれまでの業務を振り返っていた。
クレーム対応から始まり、メーカー折衝、労働環境の改善、そして以前のネットワークインフラの改修。
端から見れば、「それはもはや、一介の窓口担当ではなく『経営コンサルタント』の仕事ではないか?」と疑問に思うかもしれない。
――だが、それは違う。断じて違う。
これこそが、最前線を守るSVの究極の業務形態なのだ。
前世のコールセンターでも痛感したが、製品の欠陥やシステムの不備に対して、窓口の人間がただ平謝りし続けるだけの「モグラ叩き」を繰り返していれば、いつか必ずオペレーターの精神がすり減り、崩壊する。
最前線の人間を守るための、唯一にして最大の方法。
それは、集まった『顧客の声』という名の武器を携え、クレームのボトルネックを生み出している開発部や製造部に直接乗り込み、物理的かつ論理的に「仕様そのもの」を修正させることである。
「提案」だけして帰るコンサルタントとは違う。
電話の鳴らない平穏な窓口……ひいてはお客様の満足を生み出すためなら、他部署の領域に土足で踏み込んででも実務を捻じ曲げ、根本から更地に変えてみせる。
それこそが、真のカスタマーサポートなのだ。
「……という、極めて崇高な理念に基づいて行動しているわけですが」
私はグゥゥと鳴る自分のお腹を押さえ、深いため息をついた。
「現在の魔王城における最大の『労働環境の瑕疵』は、まだ手付かずのままでしたね……」
現在、私の頭と胃袋を悩ませているもの。
それは、魔王軍の『社員食堂』である。
ただでさえ、魔王軍の食事は劣悪だった。
常にギトギトの脂身肉と、匂いも後味も最悪な謎の獣のミルクばかり。
しかし、百歩譲ってそれらは「魔族の嗜好」として片付けられたかもしれない。
問題は、ここ数週間の著しい「劣化」である。
見た目が悪いのはもちろんのこと、味が異様に濃くなり、あろうことか最近では、厨房の周辺から『得体の知れないヤバい腐敗臭』まで漂い始めているのだ。
もはや、一個人の好き嫌いという次元を超えた、全社員の健康とパフォーマンスに関わる重大なインシデントである。
私はおもむろに漆黒のヘッドセットを装着し、マイクのスイッチをオンにした。
「……はい、お電話ありがとうございます。魔王城お客様相談室の麗野まおが承ります」
私は、誰もいない空間に向けて、極上の営業スマイルで語りかける。
「……なるほど。社員食堂における、深刻な衛生環境の悪化、および異臭騒ぎによる健康被害の懸念ですね。当窓口へのご申告、誠にありがとうございます。……はい。左様でございましたか……。それは大変な思いをされましたね。心中お察し致します。……えぇ、承知致しました。全社員の命に関わる重大な『コンプライアンス違反』として正式に受理し、直ちに当窓口から厨房への立ち入り監査を実施致します」
華麗なる自作自演の『セルフ・クレーム』を受理した私は、速やかにマイクのスイッチを切り、バインダーを片手にスッと立ち上がった。
「う、裏の魔王様……?いま、誰とお話しを……?」
部屋の隅でお茶を飲んでいたティティナが、不思議そうに小首を傾げる。
「ティティナさん。ただいまより、当窓口の総力を挙げて、魔王軍の『胃袋』というインフラを根本から叩き直します。監査に同行してください」
「ひぇっ!?は、はいぃぃっ!」
――魔王城、社員食堂・大厨房。
「うぇぇ……裏の魔王様、なんだかここ、生ゴミとお肉の腐ったような、すっごく嫌な臭いがしますぅ……」
厨房の入り口に立った瞬間、ティティナが涙目で鼻をつまんだ。
私も思わず顔をしかめる。
換気扇らしき魔法具が回っているにもかかわらず、厨房内には目に染みるような劣悪な油の臭いと、強烈な『死臭』が渦巻いていた。
「……事前の申告(私の胃袋)通りですね。衛生管理の概念が根底から完全に崩壊しています」
私がバインダーを開きながら足を踏み入れると、厨房の奥で巨大な肉の塊をナタのような包丁で叩き切っていた巨漢が、ギロリとこちらを睨みつけた。
「あぁん?なんだお前らは!ここは戦士たちの血肉を作る神聖な厨房だぞ!部外者は立ち入り禁止だ!」
「ひぃぃぃ!!」
ティティナが悲鳴を上げ、慌てて私の背後へと避難する。
そう。今、私たちに向かって怒声を浴びせた彼こそが、この厨房を牛耳る料理長である。
――しかし、その姿を見た瞬間、私はすべての原因を完全に理解した。
料理長は、全身の肉がボロボロに崩れかけ、ところどころから骨が露出した『上位のゾンビ』だったのだ。
「突然の訪問、失礼致します。お客様相談室の麗野まおと申します。本日は、当食堂の提供メニューに対する『異臭』および『味覚異常』という、重大なクレーム調査に参りました」
「俺の料理にクレームだと!?ふざけるな!」
ゾンビの料理長は、腐汁を滴らせながらバンッとまな板を叩いた。
「俺は生前、魔界最高のレストランで腕を振るった天才料理人だぞ!最前線で戦う戦士たるもの、大量のカロリーと塩分と脂こそがパワーだ!そしてこの芳醇な香りは、肉を極限まで熟成させている証拠!それをなんだ、最近の若い連中ときたら『味が濃すぎる』だの『臭い』だの文句ばかり言いおって!」
「……なるほど。カロリーと脂がパワーであり、この異臭は熟成である、と。……誠に遺憾ながら、二点ほど致命的な認識のズレがございますね」
「なにぃ?」
私は一歩前へ出て、厨房内に充満する臭いにわずかに眉をひそめながら告げた。
「恐れながら、料理長」
私はバインダーをパタンと閉じ、今日一番の冷たい視線を、彼の崩れかけた肉体へと向けた。
「その二点をご説明させていただく前に一つ……。貴方は生前、天才料理人だったのかもしれません。しかし、アンデッドとして再起された今の貴方には、料理人として致命的な欠陥がございます」
「なんだと……っ!?」
「……貴方ご自身の肉体が、現在進行形で腐敗しておられるのですよ。そのお身体から放たれる強烈な腐敗臭が、すべての料理に移ってしまっているのです。……自身の肉体が腐敗していることにすら気づかないとは、衛生管理以前の問題ですね」
「なっ……!?」
痛いところを的確に突かれ、ゾンビ料理長は顔面を蒼白にさせた――いや、元から蒼白なのだが。




