第120話:マドリードの晩餐と沈黙のテリーヌ
スペインの乾いた熱気を孕んだ風が吹き抜けるマドリード。指定された宿営地に一行が到着すると、そこには巨大な影が仁王立ちしていた。
「ガハハハ! よく戻ったな、エミール殿! それにシャルル殿も! 全員無事なようで何よりだ!」
「あなたがナギ様か!エミール殿が命懸けで作った王の道を早く見せたいものだな!」
「初めまして、ですわ、バディスト様」
渚はシャルルに叩き込まれた、社交界の挨拶を必死に体現してみる。
(す、すごい大きい人。熊みたい……)
「……バディスト殿、久しぶりね。一八〇二年のサン・ドマング以来かしら。あの泥濘と黄熱病の地獄に比べれば、このマドリードの土埃なんて香水のようね」
「違いない! あの時はシャルル殿の艦隊が届けてくれた真水と葡萄酒が、死にかけの俺たち陸軍(野郎ども)には聖母の涙に見えたものだ!」
パパベアことバディストが、その丸太のような腕でエミールを軽々と抱き上げる。
一輪の鋼の薔薇のように馬車に佇む海軍のシャルルと、泥の付いた軍靴で大地を踏み締める陸軍のバディスト。
優雅と野性。
水と油のような二人だが、かつてカリブ海の死地を共に潜り抜けた者同士にしかない、独特の信頼感がそこには漂っていた。
だが、そんな再会の中で、エミールだけは魂が抜けたような顔で、バディストの胸板をぼんやりと見つめていた。
「……バディスト様。お会いできて、光栄です……」
「ん? なんだ、えらく神妙な面持ちだな。道中、追っ手にでも怯えていたか?」
「いえ……。バディスト様、僕は……少しだけ、学んできたのです。パリを守るための、完璧な『檻』の作り方を……」
エミールの手元には、例の「牛の膿・ウサギの脳粉末」が書き込まれた不穏な管理簿。
その異様な雰囲気に、バディストは首を傾げながらも、太い腕でエミールの背中を叩いた。
「よく分からんが、気合が入っているのはいいことだ! さあ、シャルル殿、閣下への報告の前に、まずは景気づけといきましょう。マドリード最高の料理人に、最高の肉を用意させた!」
豪奢な食堂。
並べられた銀食器の真ん中に、それは鎮座していた。
「さあ、再会を祝う晩餐会だ!!召し上がれ! 本日のメイン、『野ウサギのテリーヌ・マドリード風』だ! 鮮度が命だからな、さっきまで裏で跳ねていたやつを絞めたんだぞ!」
バディストが誇らしげに蓋を開ける。
立ち上る芳醇な香り。
シャルルは目を輝かせ、アドリアンは恭しくナイフを手にした。
「あら、美味しそう! いただきましょう!」
「はっ。カディスではなかなか口にできなかった逸品ですね」
シャルルが一口、テリーヌを口に運ぼうとした、その時。
テーブルの片隅で、渚、ジャン、エミールの三人が、石像のように固まっていた。
(……ウサギの……狂った脳……取り出し……乾燥……粉末……)
渚の脳内に、先ほど教えた「パスツール式・製造法」がカラーで再生される。
ジャンは軍医としての解剖知識が「どの部位がどの臓器か」を勝手に判別していくのを止められず、テリーヌを凝視して顔を青ざめさせていた。
「……ひっ、……ぅ、うぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」
エミールが椅子を蹴って立ち上がり、口を押さえて食堂を飛び出していく。
「エミールくん!? 待って、私も無理!! シャルルさんごめんなさい!!」
「……待ちなさい」
食堂のドアに手をかけた渚と、ワインを煽り終えたジャンに、氷のような声が突き刺さった。
振り返ると、そこには額に青筋を立て、般若の如き「笑顔」を浮かべたシャルルが座っていた。
「せっかくバディストが用意してくれたご馳走を前に、逃げ出す……? それも、そんな汚いものを見るような目で。……何か、私に隠し事があるのかしら?何より私が教えた社交界マナーはどこへいったのかしら?」
「ジャン。あなたもよ。軍医なら、この肉に毒でも入っているのだとすれば、説明する義務があるんじゃないかしら?」
「毒?! そんな物は入っておらんぞ! ほら!」
バディストは、切り分けていたテリーヌを大きな口で一口で平らげて見せる。
だが、シャルルの背後のオーラは増すばかりだ。
「……ナギ、言え。俺の口からは……言えん」
「えぇっ!? 私!? ……あ、あのね、シャルルさん。……そのウサギ……脳が……」
渚は目を閉じて一気に叫んだ。
「ウサギの脳を狂わせてから取り出して! カラカラに乾燥させて! 粉にして人の体に植え付けると、死の病……水怖症を防げるって、さっき馬車の中で話しちゃってぇ!!」
……食堂に、形容しがたい沈黙が流れた。
バディストが肉切り包丁を床に落とす。
アドリアンは、フォークに差した肉を口に含むべきか、人生最大の選択を迫られた顔で静止した。
「……さっきエミール殿が、『ウサギを数百羽手配しろ』と軍にお願いを出していたのは……そういうことか」
バディストの追い打ちに、シャルルはついにフォークを置いた。
「……アドリアン! 何してるの? 毒味はあなたの職務でしょう?」
アドリアンは、震える手でテリーヌを口に運んだ。
咀嚼する。味は素晴らしい。だが、喉を通らない。
「……このウサギは、狂う前のウサギ……なのでしょうか?その『脳』が取り出された後の、体では、な……く……」
最強の騎士が、テリーヌ一切れに敗北した瞬間だった。
ジャンは大きな溜め息をつき、渚は自分の皿に山盛りにされた「脳を失った残骸」を見て、絶望に目を潤ませていた。
こうして、「おねぇ提督」一派からウサギ料理が消滅した記念すべき夜となった。
だが、エミールの図面は既に役人に渡り、牛膿と数百羽のウサギが「地下乾燥室」へ向けて集められようとしていた。
その夜、エミールは一人部屋でため息をつく。
「ナギ様……ごめんなさい。」
(僕は……人道から外れる恐怖よりも、ニコラ様に誉められたいと思ってしまったんだ)
純真だった心は、マドリードの夜風に吹かれ、ゆっくりと闇に染まり始めていた。




