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ナポレオン戦争に迷い込んだ女子大生、おねぇ提督とフランス軍を救います  作者: もふおのしっぽ
第六章:パリ凱旋とピレネーの檻

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第120話:マドリードの晩餐と沈黙のテリーヌ

 スペインの乾いた熱気を孕んだ風が吹き抜けるマドリード。指定された宿営地に一行が到着すると、そこには巨大な影が仁王立ちしていた。




「ガハハハ! よく戻ったな、エミール殿! それにシャルル殿も! 全員無事なようで何よりだ!」



「あなたがナギ様か!エミール殿が命懸けで作った王の道を早く見せたいものだな!」

 



「初めまして、ですわ、バディスト様」



 渚はシャルルに叩き込まれた、社交界の挨拶を必死に体現してみる。



(す、すごい大きい人。熊みたい……)




「……バディスト殿、久しぶりね。一八〇二年のサン・ドマング以来かしら。あの泥濘と黄熱病の地獄に比べれば、このマドリードの土埃なんて香水のようね」




「違いない! あの時はシャルル殿の艦隊が届けてくれた真水と葡萄酒が、死にかけの俺たち陸軍(野郎ども)には聖母の涙に見えたものだ!」




 パパベアことバディストが、その丸太のような腕でエミールを軽々と抱き上げる。




 一輪の鋼の薔薇のように馬車に佇む海軍のシャルルと、泥の付いた軍靴で大地を踏み締める陸軍のバディスト。



 優雅と野性。



 水と油のような二人だが、かつてカリブ海の死地を共に潜り抜けた者同士にしかない、独特の信頼感がそこには漂っていた。




 だが、そんな再会の中で、エミールだけは魂が抜けたような顔で、バディストの胸板をぼんやりと見つめていた。




「……バディスト様。お会いできて、光栄です……」



「ん? なんだ、えらく神妙な面持ちだな。道中、追っ手にでも怯えていたか?」





「いえ……。バディスト様、僕は……少しだけ、学んできたのです。パリを守るための、完璧な『檻』の作り方を……」




 エミールの手元には、例の「牛の膿・ウサギの脳粉末」が書き込まれた不穏な管理簿。




 その異様な雰囲気に、バディストは首を傾げながらも、太い腕でエミールの背中を叩いた。




「よく分からんが、気合が入っているのはいいことだ! さあ、シャルル殿、閣下ボナパルトへの報告の前に、まずは景気づけといきましょう。マドリード最高の料理人に、最高の肉を用意させた!」




 豪奢な食堂。

 並べられた銀食器の真ん中に、それは鎮座していた。




「さあ、再会を祝う晩餐会だ!!召し上がれ! 本日のメイン、『野ウサギのテリーヌ・マドリード風』だ! 鮮度が命だからな、さっきまで裏で跳ねていたやつを絞めたんだぞ!」




 バディストが誇らしげに蓋を開ける。

 立ち上る芳醇な香り。

 シャルルは目を輝かせ、アドリアンは恭しくナイフを手にした。




「あら、美味しそう! いただきましょう!」




「はっ。カディスではなかなか口にできなかった逸品ですね」




 シャルルが一口、テリーヌを口に運ぼうとした、その時。




 テーブルの片隅で、渚、ジャン、エミールの三人が、石像のように固まっていた。




(……ウサギの……狂った脳……取り出し……乾燥……粉末……)




 渚の脳内に、先ほど教えた「パスツール式・製造法」がカラーで再生される。



 ジャンは軍医としての解剖知識が「どの部位がどの臓器か」を勝手に判別していくのを止められず、テリーヌを凝視して顔を青ざめさせていた。




「……ひっ、……ぅ、うぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」




 エミールが椅子を蹴って立ち上がり、口を押さえて食堂を飛び出していく。




「エミールくん!? 待って、私も無理!! シャルルさんごめんなさい!!」




「……待ちなさい」




 食堂のドアに手をかけた渚と、ワインを煽り終えたジャンに、氷のような声が突き刺さった。




 振り返ると、そこには額に青筋を立て、般若の如き「笑顔」を浮かべたシャルルが座っていた。




「せっかくバディストが用意してくれたご馳走を前に、逃げ出す……? それも、そんな汚いものを見るような目で。……何か、私に隠し事があるのかしら?何より私が教えた社交界マナーはどこへいったのかしら?」




「ジャン。あなたもよ。軍医なら、この肉に毒でも入っているのだとすれば、説明する義務があるんじゃないかしら?」




「毒?! そんな物は入っておらんぞ! ほら!」




 バディストは、切り分けていたテリーヌを大きな口で一口で平らげて見せる。


 だが、シャルルの背後のオーラは増すばかりだ。




「……ナギ、言え。俺の口からは……言えん」




「えぇっ!? 私!? ……あ、あのね、シャルルさん。……そのウサギ……脳が……」


 

 渚は目を閉じて一気に叫んだ。



「ウサギの脳を狂わせてから取り出して! カラカラに乾燥させて! 粉にして人の体に植え付けると、死の病……水怖症を防げるって、さっき馬車の中で話しちゃってぇ!!」



 ……食堂に、形容しがたい沈黙が流れた。




 バディストが肉切り包丁を床に落とす。

アドリアンは、フォークに差した肉を口に含むべきか、人生最大の選択を迫られた顔で静止した。



「……さっきエミール殿が、『ウサギを数百羽手配しろ』と軍にお願いを出していたのは……そういうことか」



 バディストの追い打ちに、シャルルはついにフォークを置いた。




「……アドリアン! 何してるの? 毒味はあなたの職務でしょう?」




 アドリアンは、震える手でテリーヌを口に運んだ。



 咀嚼する。味は素晴らしい。だが、喉を通らない。




「……このウサギは、狂う前のウサギ……なのでしょうか?その『脳』が取り出された後の、体では、な……く……」




 最強の騎士が、テリーヌ一切れに敗北した瞬間だった。




 ジャンは大きな溜め息をつき、渚は自分の皿に山盛りにされた「脳を失った残骸テリーヌ」を見て、絶望に目を潤ませていた。




 こうして、「おねぇ提督」一派からウサギ料理が消滅した記念すべき夜となった。




 だが、エミールの図面は既に役人に渡り、牛膿と数百羽のウサギが「地下乾燥室」へ向けて集められようとしていた。




 その夜、エミールは一人部屋でため息をつく。




「ナギ様……ごめんなさい。」



(僕は……人道から外れる恐怖よりも、ニコラ様に誉められたいと思ってしまったんだ)




 純真だった心は、マドリードの夜風に吹かれ、ゆっくりと闇に染まり始めていた。

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