第119話:聖域の材料、策士の飢餓
「他には! 他にありませんか!!!」
ガタッと馬車が大きく跳ねた瞬間、エミールが猛然と渚に詰め寄った。
その顔は鼻先が触れんばかりの至近距離まで迫り、血走った瞳がギラギラと渚を射抜く。
「もっと、もっとあるはずです! 『檻』の強度を、もっと、もっと絶対的なものにできる知識が! 全部、全部今ここで吐き出してください!!」
「ひ、ひぃっ! エ、エミールくん、近い! 近いし、目が、目が怖いよ!」
渚は背中を馬車の壁に打ち付け、怯えたように身を縮める。
エミールの手は、渚の肩を掴まんばかりの勢いで震えていた。その姿は、知識という名の獲物を狩り立てる、飢えた獣そのものだった。
「おい、よせ!! 離れろ小僧!!」
見かねたジャンが、エミールの首根っこを掴んで強引に引き離し、反対側の座席に叩きつけた。
「貴様、正気か!? さっきから聞いていれば……ウサギの脳を粉にするだの、牛の膿を塗りたくるだの。ナギの言うことを真に受けて、貴様はピレネーで一体、何をするつもりだ! 病院を作るんじゃなかったのか!?」
軍医としての倫理観を根底から揺さぶられたジャンの怒鳴り声。
だが、エミールは怯むどころか、座席に倒れ込んだまま、前髪の隙間から不気味に口角を上げた。
「……病院ですよ、ジャン様。誰も死なせず、誰も通さない、完璧な『管理施設』です。そのためには、もっと『材料』が要る……。ナギ様の未知の知識という、最高に鋭利な材料が……あのニコラ様の図面の意味を引き立てる根拠に……」
管理簿に刻まれた筆跡は、もはや少年のものではなく、冷徹な統治者のようだった。
「ナギ、お前ももうやめろ!!」
ジャンが、今度は渚を激しい剣幕で指差した。
「こいつに変な知識を与えるな! お前の言うことは、医学の進歩どころか、人道から外れているぞ! 病を防ぐために、人間の精神を壊してどうする!!」
「ご、ごめんジャン……。でも、私のいた世界では、これが何百万人も救う方法なはずで、役に立つかと思って、つい……エミールくん。私の説明が悪かったかも……こいうのは「志願者」でやるの。強制じゃなくてね……」
渚は自分が口にした事がエミールには「命を救うために、命を踏み台にするやり方」を教えてしまったのだと、今更ながら青ざめる。
ジャンは胃のあたりを押さえ、吐き捨てるように言い放った。
「……ダメだ。当分ウサギは食えん。……あんな可愛らしい生き物の脳を粉にするなんて、誰がそんな恐ろしい事を考えつくんだ」
ジャンの心底嫌そうな声に、ようやくエミールの肩の力が抜け、瞳から異様な光が消えた。
急激に現実に引き戻された少年は、自分の手にある管理簿と、怯える渚の姿を見て真っ青になる。
「……す、すいませぇぇん!!! 僕、僕つい……!」
エミールは座席から転げ落ちるようにして謝罪した。
(ニコラ様やバディスト様、それにルブラン様……。彼らのように成りたいと、成れると思ってしまった。命をかけ、冷徹にフランスを守るあの人たちの隣に並びたいと……)
焦燥が彼を怪物に仕立てようとしていた。
ジャンは呆れたため息をつき、眼鏡を拭き直した。
「……あいつらは、こんなやり方はしない。相手に恐怖を植え付けて無理やり聞き出すような真似は、二流のすることだ」
「え……?」
「いいかエミール。シャルルも、ルブランも……あのニコラでさえもだ。あいつらはな、聞き出さなくとも『相手が自ら喋りたくなる』ように仕向ける。あるいは、知らない間に相手の全てを手の内に落としている。……相手が怯えている時点で、交渉術としては失敗なんだよ」
ジャンの言葉は、軍医としての観察眼に基づいた、鋭い指摘だった。
「奴らの狡猾さは、もっと静かで、もっと深いところにある毒だ。力尽くで引き出そうとするうちは、まだ子供だよ。……もう少し、あの『悪魔たち』の背中を見て学ぶんだな」
「……はい」
エミールは小さく返事をして、深く項垂れた。
馬車は揺れ続け、一行はマドリードへと近づいていく。
「本物の悪魔」たちが待つ場所へ。
エミールが本当の意味で「人間を辞める」のは、まだ少し先の話のようだった。




