第118話:ウサギの脳と、鉄のカーテン
馬車の揺れが激しくなる。
だが、エミールのペンが止まることはなかった。
管理簿には、ニコラから学んだ「効率的な人員配置」と「隔離手順」が、まるで呪文のようにびっしりと書き込まれていく。
「……中途半端がいけない。僕の決意が中途半端では『聖エミール』は、ただ無意味な箱になる……!」
エミールの瞳は、かつての気弱な少年のそれではなくなっていた。
愛する「親熊」バディストと、冷徹な師ニコラ。
その二人の期待に応え、死のデッドラインを越えた逞しい「策士」の、どこか壊れた目になっていた。
「ナギ様!! 他にはありませんか! 他にこの『檻』を、パリを守る『聖域』にするための、強力な『毒』は!!」
ぐいっ、とエミールが身を乗り出す。
その勢いに、渚は背中を馬車の壁に打ち付けた。
「ひ、ひぃっ! エ、エミールくん、目が、目が怖いよ! さっきまでの可愛い雛鳥ちゃんはどこ行っちゃったの!?」
「パリを守るためです……。閣下とルブラン公使が動かそうとしているこの世界を、病気なんていう不条理で壊させはしない。……さあ、早く! 全て吐き出してください!」
「あ……えっと……ウサギ! ウサギはどう!?」
渚は苦し紛れに、未来の偉人・パスツールの実験を思い出す。
「水怖症……あ、ラージュってあるでしょ? 犬に噛まれて、水が怖くなって狂い死んじゃうやつ! あれ!……あれはたしか、ウサギの脳に病気を植え付けて、その脳を取り出して、カラカラに乾燥させて粉にするの! その粉を……その、体に植え付ければ、死の病も防げるんだよ!」
馬車内に、一瞬の静寂。
ジャンが「ウサギの……脳を……粉に……?」と、軍医として処理しきれない情報の濁流に頭を押さえた。
だが、エミールだけは違った。
「ウサギの……狂った脳を……乾燥させて……粉に……」
エミールは恍惚とした表情でその言葉を繰り返す。
彼の脳内では、ピレネーの麓に、数千羽のウサギを飼育し、その脳を狂わせて組織的に加工する「工場」のような病院の図面が完成しつつあった。
「素晴らしい……。ナギ様、あなたはやはり女神だ。……マドリードに着いたらすぐにウサギを数百羽手配します。聖エミール病院の地下に、専用の『脳乾燥室』を増設し、水怖症の防壁を築く……!」
「……おい小僧、正気か? 貴族連中、特にシャルルなんかはウサギのテリーヌが大好物なんだぞ。あいつらの前で狂った脳みそウサギの話をしてみろ……いや、待て。」
ジャンが、ある凄惨な光景を幻視したように顔を引きつらせた。
豪華なパリの晩餐会。
銀食器が並ぶテーブルで、優雅にウサギ料理を口に運ぼうとするシャルルやアドリアン。
その隣で、血走った目のエミールが「あ、そのウサギの狂わせた脳を、乾燥させて粉にすると薬になるんですよ(ニコッ)」と解説し、自らもテリーヌに粉を振りかける地獄絵図だ。
「……ダメだ。俺は、当分ウサギはいい。……あの可愛らしい耳を見るたびに、脳を粉にする工程を想像してしまう……」
現役の軍医ですら食欲を失うほどの、あまりにも直球な猟奇性。
「ウサギ……脳……こな……。狂ったウサギが脳みそを出して喜び走り回ってる……うっ、私が言い出したんだけど、ピレネーの山の中が飛んでも無いことになってる……!」
渚も、自ら口にした情報のグロテスクさに、今更ながら顔を青ざめさせて口元を押さえた。
「ガハハ! いいですよ、ナギ様! 食べられなくなっても、死ぬよりはマシです! ニコラ様、見ていてください……。僕が、病気すらも通さない、誰も死なせない、最強の『檻』をピレネーに築いてみせますから!!」
暗い馬車の中に、エミールの乾いた笑い声が響く。
第一馬車を護衛するアドリアンは、背後の馬車から漏れ聞こえてくる「ウサギの脳」「粉」「水怖症」という不穏すぎる単語と、エミールの甲高い笑い声に、思わず愛馬の手綱を強く握りしめた。
「……ナギサ。君は一体、あの少年に何を教えてるんだ……」




