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ナポレオン戦争に迷い込んだ女子大生、おねぇ提督とフランス軍を救います  作者: もふおのしっぽ
第六章:パリ凱旋とピレネーの檻

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第118話:ウサギの脳と、鉄のカーテン

 馬車の揺れが激しくなる。

 だが、エミールのペンが止まることはなかった。




 管理簿には、ニコラから学んだ「効率的な人員配置」と「隔離手順」が、まるで呪文のようにびっしりと書き込まれていく。





「……中途半端がいけない。僕の決意が中途半端では『聖エミール』は、ただ無意味な箱になる……!」




 エミールの瞳は、かつての気弱な少年のそれではなくなっていた。




 愛する「親熊」バディストと、冷徹な師ニコラ。

 その二人の期待に応え、死のデッドラインを越えた逞しい「策士」の、どこか壊れた目になっていた。




「ナギ様!! 他にはありませんか! 他にこの『檻』を、パリを守る『聖域』にするための、強力な『ワクチン』は!!」




 ぐいっ、とエミールが身を乗り出す。 

 その勢いに、渚は背中を馬車の壁に打ち付けた。




「ひ、ひぃっ! エ、エミールくん、目が、目が怖いよ! さっきまでの可愛い雛鳥ちゃんはどこ行っちゃったの!?」




「パリを守るためです……。閣下とルブラン公使が動かそうとしているこの世界を、病気なんていう不条理で壊させはしない。……さあ、早く! 全て吐き出してください!」




「あ……えっと……ウサギ! ウサギはどう!?」




 渚は苦し紛れに、未来の偉人・パスツールの実験を思い出す。




水怖症すいふしょう……あ、ラージュってあるでしょ? 犬に噛まれて、水が怖くなって狂い死んじゃうやつ! あれ!……あれはたしか、ウサギの脳に病気を植え付けて、その脳を取り出して、カラカラに乾燥させて粉にするの! その粉を……その、体に植え付ければ、死の病も防げるんだよ!」


 


 馬車内に、一瞬の静寂。




 ジャンが「ウサギの……脳を……粉に……?」と、軍医として処理しきれない情報の濁流に頭を押さえた。




 だが、エミールだけは違った。



「ウサギの……狂った脳を……乾燥させて……粉に……」




 エミールは恍惚とした表情でその言葉を繰り返す。




 彼の脳内では、ピレネーの麓に、数千羽のウサギを飼育し、その脳を狂わせて組織的に加工する「工場」のような病院の図面が完成しつつあった。




「素晴らしい……。ナギ様、あなたはやはり女神だ。……マドリードに着いたらすぐにウサギを数百羽手配します。聖エミール病院の地下に、専用の『脳乾燥室』を増設し、水怖症の防壁を築く……!」




「……おい小僧、正気か? 貴族連中、特にシャルルなんかはウサギのテリーヌが大好物なんだぞ。あいつらの前で狂った脳みそウサギの話をしてみろ……いや、待て。」




 ジャンが、ある凄惨な光景を幻視したように顔を引きつらせた。




 豪華なパリの晩餐会。


 銀食器が並ぶテーブルで、優雅にウサギ料理を口に運ぼうとするシャルルやアドリアン。




 その隣で、血走った目のエミールが「あ、そのウサギの狂わせた脳を、乾燥させて粉にすると薬になるんですよ(ニコッ)」と解説し、自らもテリーヌに粉を振りかける地獄絵図だ。




「……ダメだ。俺は、当分ウサギはいい。……あの可愛らしい耳を見るたびに、脳を粉にする工程を想像してしまう……」




 現役の軍医ですら食欲を失うほどの、あまりにも直球な猟奇性。




「ウサギ……脳……こな……。狂ったウサギが脳みそを出して喜び走り回ってる……うっ、私が言い出したんだけど、ピレネーの山の中が飛んでも無いことになってる……!」




 渚も、自ら口にした情報のグロテスクさに、今更ながら顔を青ざめさせて口元を押さえた。




「ガハハ! いいですよ、ナギ様! 食べられなくなっても、死ぬよりはマシです! ニコラ様、見ていてください……。僕が、病気すらも通さない、誰も死なせない、最強の『檻』をピレネーに築いてみせますから!!」




 暗い馬車の中に、エミールの乾いた笑い声が響く。

 



 第一馬車を護衛するアドリアンは、背後の馬車から漏れ聞こえてくる「ウサギの脳」「粉」「水怖症」という不穏すぎる単語と、エミールの甲高い笑い声に、思わず愛馬の手綱を強く握りしめた。




「……ナギサ。君は一体、あの少年に何を教えてるんだ……」


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