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ナポレオン戦争に迷い込んだ女子大生、おねぇ提督とフランス軍を救います  作者: もふおのしっぽ
第六章:パリ凱旋とピレネーの檻

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第117話:女神の聖痕、膿の啓蒙

 カディスの潮騒が遠ざかり、街道には冷たい風が吹き抜け始めていた。



 マドリードで待つバディストの部隊と合流するまでの数日間、この小規模な行軍は、シャルルの部下たちが前後を固める厳重な警戒態勢を敷いている。




 そのフォーメーションは、どこか奇妙な均衡を保っていた。





 先頭を行く第一馬車には、シャルルが1人優雅に座っている。





 軍人としての凛とした佇まいを崩さず、窓の外を流れる景色を見つめ、これから始まるルブランとの再会、そしてパリでの暗闘に備え、精神を研ぎ澄ませているようだった。



 

 その傍らに寄り添うのは、愛馬に跨ったアドリアンだ。



 彫刻のような横顔をさらに険しくし、周囲の茂みからネズミ一匹飛び出さぬよう、常に神経を尖らせている。その鋭い視線は時折、すぐ後ろを行く「第二馬車」へと向けられていた。




 そして、問題の第二馬車。

 ここには渚、ジャン、そしてエミールの三人が詰め込まれている。




 ガタゴトと、荒れた道が車体を揺らす。車内は三月の冷気と、それ以上に冷え切った沈黙に包まれていた。




「……ナギ様。お寒くありませんか? 僕のこの上着を、よろしければ膝掛けに……」




 エミールは、カディスで出会った「羞恥に震える可憐な女神」を思い出しながら、震える手で上着を差し出した。



 彼にとって渚は、いまだにガラス細工のように脆く、この世の汚れを知らぬ女神のままだった。



「あ、ありがとうエミールくん。でも大丈夫。私、これでも結構『頑丈』だから!」




 渚は快活に笑い、あろうことか狭い座席で胡坐をかかんばかりの勢いで座り直した。




 エミールの瞳が点になる。




(あれ? 淑やかな女神は? あの、今にも消え入りそうな慎ましさは……?)




「おい、ナギ。ボロがでてるぞ。……それより、あの続きが気になる」




 向かい側に座る軍医ジャンが、投げやりに、けれど鋭い眼光で渚を見据えた。





「お前がカディスで言っていた『聖痕』の正体……。国家規模で赤ん坊に刻むという、あの災厄除けの医術のことだ。パリへ着く前に、その種明かしをしてもらおうか。軍医として、放っておけん」




「呪術じゃないってば! えーとね、ジャン。……牛だよ、牛!」




「……うし?」




 ジャンが眉をひそめ、エミールが首を傾げる。




 渚は身を乗り出し、ジャンの膝の上にある診察カバンを、慣れた手つきでパカッと開け、ナイフを取り出す。




痘瘡とうそうっていう、ほら、あばたが体中にできる怖い病気があるでしょ? あれ、牛がかかる『牛痘』っていう病気の膿を、わざと人間に植え付けると防げるの! つまり……元気な牛の膿を、こうナイフで傷をつけて体に植え付けるのよ!」




 渚が腕を切り裂く素振りをし、馬車の中が、凍り付いた。





「な、ななな……ナギ様!? い、今、なんとおっしゃいました……?」


 


 エミールの顔から血の気が引いていく。




 女神の口から「牛の膿」という、およそ社交界とは無縁すぎる単語が飛び出したからだ。




「膿だよ、エミールくん! ナイフでちょっと腕を傷つけて、そこにグイグイッて塗り込むの。そしたら『聖痕』ができるの。あ! ちなみに今の私には跡はないよ! 日本のおじいちゃんやおばあちゃんにはあるんだけどね。……もしかしたら馬の膿でもいけるかも。ねえジャン、道端に元気な馬とか牛、落ちてないかな? ジャンの腕で今すぐ試してみようよ!」





「断る! 誰がそんな不潔な真似を自分でするか! 変な病気になるぞ!!」





 ジャンは嫌悪感を露わにしながらも、軍医としての好奇心が勝り、眼鏡のブリッジを押し上げた。





「……だが、もしその理論が事実なら、欧州の医学はひっくり返る。……いや、その前に、お前が『膿を塗りたくる狂女』として精神病院にぶち込まれるのが先か」




「失礼だなぁ! 私のいた場所では、これが一世代前の常識だったんだから!」




 渚は「どや!」と言わんばかりに、上腕のBCG跡を指し示した。




「見て、エミールくん! これが私の誇り、『聖痕』よ!これはその痘痕に効くやつとは違うんだけど……。兎に角、 膿を制する者はパリを制す! ……ねえ、エミールくんが試してみる? 私が、その細い腕に膿をグイグイしてあげよっか?」





「ひ、ひぃぃぃぃぃぃっ!!!」




 エミールは座席の隅に追い詰められ、ガチガチと歯を鳴らした。




 目の前にいるのは、羞恥に震えるヴィーナスではない。



 笑顔で「膿を塗り込め」と迫りくる、マッドサイエンティストの皮を被った魔女だった。




(違う……。僕が、死を覚悟して迎えに来た女神様は、こんな……こんな、『膿推し』の過激な人じゃなかったはずだぁぁ!)


 


 「ナギ、やめてやれ!しつこいとピレネーね火炙りにされるぞ」



「や、やだあ!エミールくん、ごめんね」



 絶望に打ちひしがれ、座席に沈み込むエミール。




 だが、その恐怖の波が引いた後、彼の脳裏にバイヨンヌで自分を死の淵まで追い詰めたニコラの冷徹な声が蘇ってきた。




『システムが機能していなければ、あなたの首は繋がらない』




 エミールの瞳から、生気がスッと消えた。




 代わりに、ニコラから叩き込まれた「生存のための知識」が、渚の言葉を冷酷な数式へと再構築し始める。




(精神病棟にぶち込まれる……待てよ。ナギ様が言うことがもし事実なら。牛や馬の膿一つで、あの忌まわしい痘瘡を『制御』できるというのなら……)




 エミールは、震える手で管理簿を取り出した。




(確かに、ナギ様には痘痕や傷らしきものがなく、とても、本当に美しい……ならば言っている事は本当なのかもしれない)




「……ナギ様」




 先ほどまでの情けない悲鳴ではない。

 どこか乾いた、低く湿った声が車内に響いた。




 渚とジャンが、不審そうにエミールを見る。





「その『膿を植え付ける儀式』……。もし失敗して発症しても、他の人に移らないような『密閉された場所』で、かつ、絶対に逃げ出せない『管理された検体』がいれば……実験の確証が取れますよね?」




「え……? じっけん?」




 渚が目を丸くする。エミールの脳裏には、ニコラが図面を引き、自分が一度は拒絶した『聖エミール病院』――中からは決して開かない密閉窓を持つ収容所の光景が浮かんでいた。




「……ちょうどいい場所がそろそろ完成します。イギリス人の捕虜なら、ピレネーに腐るほどいます。彼らを『聖エミール』に隔離し、ナギ様の言う『膿の塗り込み』を試せばいい。失敗すればそれまで。成功すれば、それはパリへの最高の手土産になる……」




 エミールは、ニコラが全権委任状を抜き取った時のような冷たい手つきで、ペンを走らせ始めた。




「えっと、エミールくん? 冗談だよね、その、本当にやるとか……」




「ナギ様は、やはり女神だ。……僕の首を繋ぐための、最高の『解答アンサー』を持ってきてくださった……。ガハハ、面白くなってきた……」




 ニコラそっくりの無機質な呟きと、バディストのような不吉な笑い。




 それらが混ざり合ったエミールの変貌ぶりに、今度は渚の方が背筋に冷たいものを感じて後ずさった。




「ちょ、ちょっとエミールくん!? 顔が怖いよ! 私、そんな怖いこと言ってないよ!?」




「……なんだ? この小僧、ナギが脅し過ぎていかれたか?」




「いいえ。僕は正気です。『膿を制する者はパリを制す』……やりましょう、ナギ様。あなたの知識を、僕が最も効率的な形で『運用』して差し上げます」




 ジャンの眼鏡の奥で、鋭い光が走る。




「……はぁ。どいつもこいつも、馬鹿げた事ばかりするパリの公使のような事を言うんだな」





 ジャンは吐き捨てるように言い、窓の外を見やった。




 第一馬車の隣で、アドリアンが不審な悲鳴の止んだ第二馬車を気にかけながら、黙々と馬を走らせている。




 雪解けのピレネーへと向かう、歪な行軍。




 一人の純朴だった少年が、冷徹な「システムの一部」へと堕ちていく音を、泥濘を噛む馬車の車輪だけが聞き届けていた。

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