第121話:ウサギの亡霊と、逆走する補給線
翌朝。
マドリードの宿営地に差し込む朝日は、どこか重苦しい静寂に包まれていた。
朝食のテーブルに現れたシャルルの姿を見た瞬間、渚、エミールの二人は「ヒッ」と短い悲鳴を上げて身を硬くした。
ジャンは下を向き紅茶を啜る。
「……おはよう。皆さん、よく眠れたかしら?」
シャルルは優雅に椅子に座り、ティーカップを口に運ぶ。その動作はいつも通り完璧だ。
しかし、その瞳の奥には、ドロリとした「怨み」が渦巻いている。
彼、貴族にとって、ウサギのテリーヌは大好物だった。
それが今や、渚の知識とエミールの暴走のせいで、『狂った脳みそ粉末の原材料』に上書きされてしまったのだ。
「シャルルさん……あの、お美しい……今日も薔薇のようですわ……」
渚はガリバー旅行記の小人さながら、機嫌を損ねれば踏み潰されそうな巨人の機嫌を必死に伺い、愛想笑いで媚びを売る。
しかし、シャルルの冷たい視線が、渚の皿にあるパンを射抜いた。
「暫くはパンと果物だけがいいわ。……肉は、いいの。……だって、『狂った脳みそが取り出された後の残骸』なんて考えてしまのよ。何故かしら……フフ、フフフ……」
扇子の陰で笑うシャルル。
だが、目が、目が全然笑っていない。
そこへバディストが、巨大な体を縮こまらせて駆け込んできた。
「シャルル殿! 大変だ! エミール殿が昨日、血走った目で『国家の最優先事項だ!』と役人と軍に迫ったもんだから……今朝、裏門に五十羽のウサギが届いちまった!」
「……はあ?」
シャルルの眉間がピクリと跳ねた。
その圧に、渚は食卓の下に隠れたくなった。
「バディスト殿、正気? 私たちはカディスからここまで北上してきて、これからようやくピレネーを越えてパリへ戻るのよ? なんでわざわざ、病院を建てるピレネーに着く前のこの場所で、五十羽もの『脳みそ』を仕入れているのよ! 第一、春になればピレネーのそこら中にいるじゃない!!」
「そ、それが……エミール殿が『一刻も早く製造ラインを確保せねば、ニコラ殿に誉められない』と泣きついてきたもんで、俺もつい……」
地理的に考えれば、マドリードで調達したこれら大量の動物は、これから険しいピレネー山脈を越えて連れて行かなければならない。
完全な二度手間。
行軍の速度はガタ落ちだ。
「エミール。……あなた、責任を取りなさい」
シャルルが、震えるエミールの首根っこを、冷徹に掴み上げた。
「……ひ、ひいぃっ! シャルル様! 僕はただ、あそこに『檻』を作るための材料を、最短で確保しようと……! でも、でもそれは全て祖国のためにです!祖国の為の狂気の粉を量産する覚悟なのですぅ!」
「はぁ……そんな妙な覚悟いらないわよ。私たちは医者や研究者じゃないのよ!もういいわ、その五十羽の『覚悟』が、裏門であなたを待っているわ。……ナギ、あなたもよ。言い出しっぺなんですもの。ピレネーに着くまで、馬車の中でウサギと添い寝でもしていなさいな。……一羽でも逃がしたら、あなたの脳を狂わせて、取り出して粉にして、ジャンの口に流し込んでやるわ!!」
「ひ、ひぃぃぃぃぃっ! シャルルさん、お美しいお顔が怖いです!!」
こうして、マドリードの朝は、美食を奪われ、さらに「行軍の邪魔になる大量のウサギ」を押し付けられたおねぇ提督による、凄惨な強制執行だった。
その光景を、ジャンは遠くから紅茶を煽りながら、虚無の目で見つめていた。
*
裏門にて
「……ダメだ。ピレネーに着く前に、この軍隊はウサギの糞尿の処理で全滅だ。……ウサギは繁殖能力が高い。倍々で増えるぞ」
ジャンの不吉な予言通り、荷車からは時折「キュウ」と未来の粉末たちが鳴く声が響く。
脱走したウサギを必死に追いかける渚と、キュイラスを鳴らしながらウサギを挟み撃ちにするアドリアン。
その様子を横目にエミールは青ざめながらも、管理簿に淡々と筆を走らせる。
「いやあぁ!! このウサギ噛んだ!」
渚の悲鳴が轟く。
「ナギサ! 下がっていろ、私が仕留める!」
凄まじい風圧と共に、アドリアンが抜剣する。
『No.17 脱走常習犯』
『No.23 咬傷注意』
エミールの手によって、不穏な特記事項が次々と追記されていった。




