Scene4
ロングホームルーム終了の鐘が鳴ると、話している先生の言葉も聞かずに生徒の大半が立ち上がり、これからの予定についてこれ見よがしに話し合い始める。
先生側も見慣れた光景なので特に反応もせず、半ば投げやりに遮られた言葉を続けていた。
先生の声は全く聞こえないものの、一応言い終えたのを目で確認してから帰る準備を始める。
机の中に入っていた文庫本を取り出した時、文庫本の上に乗っていた何かが床に落ちた。
何か入れていただろうか、いや何も入れていない筈、と自問自答しながらそれを拾い上げると、真っ白な封筒だった。表には何も書かれておらず、裏返しても宛先も何も書いていなかった。
おそらく中に手紙が入っていると思うが、その前に目線だけで前方を見た。
「…」
案の定、一番前の席に集まっている男女五人が期待した目でこちらを見ていた。が、視線に気づいたのかいっせいに目を逸らして、教卓の方を向いた。五人全員が、笑いを堪えるようにして肩が上がっている。
おそらくこの封筒の中身は、受け取った時の反応を楽しむための偽物の恋文で、差出人は架空の人物…というのが容易に想像できる。
それなら、封筒に中身を入れるだろうか。自分の反応を見たいのであれば、封筒を見つけた時に目的は達成されていると思う。背中を向けながらも顔をこちらに向けている集団を見ながら、封を開けて中身の紙を取り出した。
「…」
綺麗とは言い難いが汚いとも言えない、筆圧の強い字で書かれた短い文章が書かれていて、今日の午後五時に校舎裏に来て欲しい、という内容のものだった。
恋文ではなかったようだが、似たようなものであることは確かだった。問題は、これが本物かどうかということだけ。
これがもし本物で、前にいる集団が浮ついた話題に対して野次馬のような気持ちで見ているだけだったとしたら。校舎裏に自分を待つ人間がいるのであれば、その人物は待ちぼうけを食うのであれば、顔を出した方がいいのではないだろうか。
本物ではなかったとしても、自分を待つ人間がその場にいる可能性もある。
五人の集団は依然笑いを堪えながらこちらを見ている。未だに意図は分からない。
封筒を手に取って開けて読む今までの一連の流れの中、自分が笑えるようなリアクションをしたとは思えないが、それがまた面白いのだろうか。
暗い気持ちになりながらもスクールバッグを手に取って席を立つ。五人の野次馬たちは、嘲笑を含んだ目線を向けたままだった。
校舎裏に行くと、一人の生徒が立っていた。
ソワソワした様子で辺りを見回していたので、こちらの存在にもすぐに気付いた。
「…」
手を伸ばしても届かない、大股で三歩進んでギリギリ届くかどうかの距離に立って相手の言葉を待つ。相手はこちらを見ると、苛立ちを含んだ睨むような視線をこちらに向けた。
この時点で、何が起きているのかを大体把握した。これから相手が言う言葉も、他に誰がいるのかも、なんとなく。
「…前から好きでした、小崎さん」
人生でちゃんとした告白をされたことは一度もないが、今回も人に告白するにはおよそありえない程のか細い声量と、投げやり且つ乱暴な口調で、私に向けて告白の言葉が発せられた。
「…ごめんなさい」
私の喉からも、自分の想定よりも遥かにか細い声量の震えた声が発せられた。相手に聞こえたかどうかも怪しいが、表情、仕草、口の動き、状況、どれを取っても伝わっていない訳がなかった。
展開自体は、全員が想定していたものだと思う。それでも、祝福にも似た賞賛の声と拍手が私達二人の頭上から降り注いだ。
「最低ライン更新~!」
「『純情ちゃん』もダメならもう無理だな!!」
聞き取れた言葉以外にも様々な言葉が降ってきていたが、どれも私と目の前にいる男子生徒を揶揄う言葉だけだった。ふと目線を上げると、長めの髪を中央で分けている、細い目の男子が私を怒りのこもった目で見ていた。慌てて目線を自分の足元に戻す。
おそらくこの男子は上にいる集団に無理矢理、私に告白するように仕向けられたのだと思う。あの封筒はこの男子が書いたのか別の人物が書いたのか定かではないが、この場を作るためのものだったということだろう。
そして、メインのターゲットは私ではなくこの男子だった。『学校で一番人気のない女子に告白してフラれる』という、学校生活において大きな傷をつけるのが目的なのだろう。
かといって、付き合うという選択肢もない。成功しても失敗しても結局傷がつくことには同じで、傷の大きさや深さもほとんど変わらない。何より、お互いに全く惹かれる気持ちがないのは部外者が見ても明らかなのだから、失敗した方が後に引きずらずに済む。
だから、怒りの矛先が私に向いているのは違うと思うものの、この男子はそこまで考える余裕はないのだと思う。最近は少なくなってきたものの、私も上にいる集団の獲物になっている時は何も考える余裕はな
い。
「っ!」
目の前にいる男子何か言葉を発すると同時に、私達二人の中間くらいの校舎の壁付近に何かが落ちて破裂した。
思わず身体を震わせてしまったことに、また頭上から笑い声が起こる。
何が落ちてきたのか分からなかったが、おそらく水風船のようなものだった。落ちた場所から水が飛び散って、履いているローファーにぶつかった感覚がした。校舎の壁からはそこそこ離れていたからか、お互いに濡れるようなことはなかった。
頭上から窓が閉まる音が聞こえて、同時に笑い声が遠くなる。私は何も言わず、足元にある破裂した後のピンク色の薄いビニールのようなものを見たままその場に立っていた。
「…あのさ、迷惑なんだよね。そっちの都合に巻き込まれるのも」
「…」
未だに目の前の男子の矛先は私に向いているようだった。
私が手紙を無視したら無視したで、この男子は何時間も無理矢理待たされることになる。私自身が体験したので、それは分かっていた。
もちろん、この男子はそれを知らない。だから、私が怒っても仕方がない。
「もちろんさっきのは冗談だから、本気にしないでね」
吐き捨てるようにそう言うと、距離を置くようにして私を通り過ぎ、去っていった。
誰にだって怒りの矛先は必要だと思う。相手に言葉をぶつけて自分の中のマイナスの何かが消えるなら、それが私でも我慢しようと思う。それに、正体不明の罪悪感が何故か自分の中にも存在していた。
数分間、もしくは十数分間はその場に俯いたまま立っていた。飛び散った水風船が原因ではない、濡れた地面が渇いた辺りで、鉛のように重い足を動かして帰路についた。
◆
昨日のことを忘れるためにも、今日と明日の土日は全て趣味の時間に使うことにした。授業の予習と復習も大事ではあるものの、気分的にどうしても勉強をする気にはなれなかった。
嫌なことがあった時は、それを上回る楽しさや嬉しさで上書きするしかない。私にとっては、本だった。
都心から外れた、人通りの少ない地域にある図書館。交通の便も悪く人の入りも他の図書館に比べてかなり悪いが、それでも二階建てで本の数も少なくない。児童書が少なく閲覧室もなければ閲覧席も少ないが、ただ本を借りて読むだけであればその欠点もほぼ存在しないようなものだ。
それに、人が多いよりも人が少ない方が良い。少なくとも、私にとっては。
館内に入り、まずは借りていた本五冊を返却する。いきなり軽くなった布製の手提げバッグを肩にかけながら広い館内を歩き回る。今日は借りたい本を事前に決めていなかったこともあるが、別の目的もあった。
日本十進分類法の『000』…つまり百科事典などの総記から、『900』の文学類まで、端から端まで順番に。しかも、確認するのは本棚ではない。
これが図書館に来た時に毎回やることだった。やり始めてから、一度も欠かしたことはない。
時間もかかる上にそこそこの距離を歩くし、周りの人間や職員の人からも変な目で見られる可能性はあるのだが、それでもやめる気にはならない。
普段色々なジャンルの本を読むのかと聞かれると、そうではない。私は基本的に小説しか読まないので、『900』の棚にしか用はない。学校の宿題等でも他の棚から本を取ったことはなかった。
これからも他の棚から本を取ることはないだろうと心の底では思っているが、何故続けているのかと聞かれると…。
人には色々あると思う。隠したいことや後ろめたいことの一つや二つが。
…前言撤回にはなってしまうが、もしかするとたまたま目に入った本が気になって読むジャンルが広がるかもしれない。
『人間の身体はほとんどが水でできている』というタイトルを見ても、今のところ全く気になることはないが。
「…っ!」
自問自答して溜息をつき顔を上げると、目的であった人物が目の前に出てきて途端に身体に力が入る。全ての本棚を歩き回るのも、この人に会うのが目的だった。
「…」
少し放置しているのか、前髪と襟足が長めに残っている髪型。それでも清潔感を感じるのは整った顔の造りからか、スラっとしたスタイルからか、立ち振る舞いに不思議な魅力を感じるからだろうか。右手で本を数冊積み上げた状態で、真剣な顔つき…というより、普通の人が見たら委縮してしまうような仏頂面で本棚を睨んでいた。
先週の金曜日、ホテルの地下にある…ダンスクラブ?のようなところで会い、その後二人で一緒に帰った。その時にお互いの読む本の話をして、ここ数年間で一番楽しい時間を過ごした。
実は、彼に会うのは先週が初めてではなかった。この図書館で見かけるよりもさらに前に、会って話したことがある。
彼の方は覚えていないようだったが、別にそれで良かった。
何故彼を探しているかと言われれば、今となっては分からない。先週までは明確に目的はあったものの、今週からは探している目的は正直明確じゃない。
強いて言うならば、先週の帰り道で目的が果たせなかった…正確には、果たし切れなかったから、まだ未練があるとでも言うべきだろうか。
とは言っても、いつも通り話しかけようとは思っていない。
彼は警戒心が強く、誰であっても自ら近付くことはない。先週の振る舞いをみても、仲の良い人物に対しても自らコミュニケーションを取りに行くタイプではないようだった。
相手が女性でもそれは変わることはなく、自分に話しかけてきた、私でも可愛いと思う椎名さんを一瞥くれただけで門前払いするくらいには、どれだけ見た目が良くても簡単には心を開かない。
それに、今もそうだが、普段の彼は人を近付かせない雰囲気がある。表情を作ることをほとんどせず、仏頂面で威圧感を放っている事が多く、話しかけようものなら睨みつけられるのではないかという恐怖心すら感じてしまう。というか、近寄ってきた人間を睨みつけている姿を見たこともある。
それでも、彼が冷たい人間ではないという事は私は理解している。あくまで警戒心が強いだけで、少しでもそれが緩めばとても優しくて細かい所にまで気配りができる人間だ。
現に、先週一緒に歩いた時は柔らかい表情を見せる瞬間もあり、常に私をエスコートするように気遣いながら歩いていたこともちゃんと伝わった。
「っ!」
何分間その場に立っていたのか分からないが、背後から聞こえたドン、というまあまあ大きい音で我に返った。飛び上がって後ろを振り向くと、三十代くらいのお姉さんが床に落ちた分厚い本を申し訳なさそうに拾おうとしていた。
嫌な予感を感じながら前を向くと、目の前の彼は無表情に私を見ていた。途端に冷や汗が全身から出てくる。視界が丸く狭まったような感覚を感じながら、彼の冷ややかな視線を真っすぐに受け止めていた。
「…」
過去、彼に睨まれた時も全身から汗が噴き出すくらいには恐怖を感じて動けなくなった。でも、今動けないのは彼が睨んでいるからではなく、ストーカーまがいのことをしていたという後ろめたさが私の中にあるからだった。
現に彼は私を睨んではいない。私に何の感情も持っていないような、ただすれ違う人間を見るような無表情で私を見ていた。
既に後ろにいたお姉さんは私達から離れていたが、私は目を逸らすことも足を動かすこともできなかった。苦しくなって、ようやく呼吸を止めていたことを思い出して、彼に気付かれないように鼻で息を吸う。
彼も無表情で私を見たまま動かなかったが、私が動けないのを察したのか彼の方から動き始めた。
「…偶然だね」
「…はい」
偶然ではない。彼がこの図書館に通っているのを知って、都心にある図書館には行かずにわざわざこちらの図書館に来ている。
人が多くて気疲れするので、今では遠くてもこちらの図書館の方が好きではあるものの、結局のところ彼がきっかけで通い始めたことには変わりがない。
「…」
彼も言葉に困っているようだった。図書館だから静かにしようとしている訳ではなく、単純に次の言葉に困っていた。自分自身の後ろめたさで勝手に委縮していたが、冷静になって彼目線で考えれば、連絡先を渡されて、それを無視した相手と偶然出会ってしまった状態になっている。要するに、「関わることを一度拒否した相手と関わらざるを得ない」状態。
私自身も彼と友人関係になりたい、というような感情はない。やむを得ず連絡先を渡すしかなかったが、根本的には遠くから眺めているだけでいい。彼が私と関わりを持ちたくないのであれば、彼の負担になるような存在にはなりたくない。
言うならば、彼は私の…身近にいる、尊敬する人物だ。小さい頃に良くしてくれた近所のお姉さんや、幼稚園の先生、学校の先生のように、こんな人になりたいと思えるような、憧れる人物というだけだった。
「…外、出れる?」
私にだけ聞こえるような声で言った彼に、私は頷くしかなかった。
「…」
「…」
数分後、図書館の敷地内にある中庭のベンチに座って、二人そろって無言のまま気まずい時間を過ごしていた。
図書館の中庭とは言ってもそもそもあまり賑わっていない、年季の入った図書館ではあるのでとても綺麗とは言えないし、大きくもないし、人も全くいない。何度もこの図書館には足を運んでいるが、このベンチを利用している人は今まで一度も見たことはない。
頻繁に清掃されている形跡もなく、過去真っ白だったであろうタイルは所々茶色く濁っているし、小規模な足湯よりも小さなサイズの噴水は数年使われた形跡がない。
気まずいことには気まずいのだが、会話をしなくていい理由が今のところある。お互いに昼食を持参していて、隣に座ったまま無言で食べているからだった。
お互いに、家から持ってきたおにぎり。違うのは大きさと、包んでいるのがアルミホイルか食品用ラップか。
小食な私は当然彼よりも早く食べ終わるので、先に片付けて彼を待つ。私自身が勝手に感じている謎の圧力で彼の方を向くことができないので、中庭の先にある駐車場に目を移す。
図書館自体はさほど賑わっていないものの、近くに市民体育館があったり大きな公園があったりするので駐車場は混雑している。
駐車場のさらに先にある大きな公園で、子供たちが大きな遊具で遊んでいるのがなんとなく見える。眼鏡があってもギリギリ見えるくらいの距離なうえ、中庭にある木や植え込みに紛れているおかげで、おそらく公園側からは私達の姿を認識することすら難しいだろう。注意深く見て初めて、ようやく気付けるかどうかというくらいだと思う。しかも、中庭は図書館の入り口とは反対方向にある。
要するに、私達は誰からも気付かれない状況にある。図書館の職員ですら私達の存在には気付いていない筈だった。
「…ここにはよく来るの?」
自身の昼食を片付けながら、彼が口を開いた。予想以上に優しく柔らかい口調だったので、勝手に感じていた圧力が薄れて少しだけ彼の方を向いた。
「…はい」
少し考えて、答えた。もしかすると今度から私に会わないようにこの図書館には来ないようになってしまうのではないかと思った。
彼は私の方を見ず、黙ったままだった。先週一緒に帰った時にも感じた事だが、彼は基本的に人と目線をほとんど合わせないで話す。目を合わせることが苦手なのか、それとも、話しやすくさせようという私への気遣いなのか。
現に、同じく人と目を合わせて話すのが苦手な私が、彼の方を向くことには苦手意識すら感じない。
「あの紙、失くしたんだ」
急に話が飛んだが、何のことなのかはすぐに分かった。私が先週の別れ際に渡した、連絡先を書いたメモのことだ。
でも、私もそこまで頭は悪くない。私が傷つかないように、やんわりと断ってくれているのは私だって分かる。
だから、私もこれ以上食い下がろうとは思わない。
「…」
頷きはしたものの、言葉は出なかった。憧れている人物から関わりを持ちたくないという事を告げられたことに変わりはなかった。顔を上げて笑顔を見せたいのに、どうしても今の表情を見せたくなかった。
「本の話ができる知り合いなんてほとんどいないし、楽しい時間だったから俺も―――」
優しい言葉をかけられて、余計に顔を上げられなくなる。普段から馬鹿にされたり、暴言を吐かれたり、キツい言葉ばかり言われることが多いものの、今の優しい言葉の方が心に重くのしかかる。
彼は言葉を続けているが、私はほとんど認識できていなかった。慣れてきていると思ったのに、ここ数日の厳しい出来事と、先週との気分の落差で私の精神は完全に打ちのめされていた。
心には負担がかかるものの相変わらず優しくて心地良さすら感じる彼の声が、別の声に突然掻き消された。
「ああ、ここにいたのかい」




