人生が二度あれば
「いやぁ、今回の件は危なかったですね」
泰人はそう言って、好物のチーズバーガーにかぶりついた。
ここは神楽の大学の近くにあるファーストフード。
店内は、学生たちであふれかえっていた。
泰人の左どなりに座った神楽は、バニラシェイクからくちびるをはなし、
「ま、最終的に解決したし、いいんじゃない?」
と、やや淡白なコメントをかえした。
「そういう問題じゃないと思うんですけど……」
「終わり良ければすべて良し。命があったら感謝する。それがこの家業の秘訣ね」
あのあと、西条静は、息を吹き返さなかった。警察から事情聴取を受けたものの、西条静が病死以外に考えられないという理由から、三人はあっさりと解放された。数日経って口座を確認してみたところ、見たことのないような金額が振り込まれており、神楽は気絶しそうになった。払込人は、西条の経営する金融コンサルタントのひとつであった。
泰人は、もぐもぐと口を動かしながら、
「代金を払ってもらったのはいいんすけど、どうやって振り込んだんでしょうね?」
とたずねた。
神楽は、そうね、と言って、
「これはただの予想だけど……西条静は、博物館を訪れるまえから、あらかじめ会社にそう指示しておいたんじゃないかしら。自分が亡くなったら、憧夢の口座へ一定の金額を振り込むように、って」
と答えた。
泰人は、おどろいた。
「え? じゃあ西条は、始めから失敗を予期してたってことですか?」
神楽は首を左右にふった。
「予期してたっていうより、保険をかけたんじゃない。忘れ屋が失敗したら、最初からあの博物館で死ぬつもりだったんだわ。だってあそこは……彼の妻との、思い出の場所なんですものね」
「……」
三人のテーブル席を沈黙がおおった。
神楽はそれを打ち破るように、大きく息をついた。
「ま、というわけで、西条からの報酬としてもらっておいた。ちょっと税金が怖いことになってるけど……それでかぐやさんの穴埋めは簡単にできるから、万々歳よね」
「すみません。私のぶんは、将来必ず払いますので……」
ナナコは、謝りながらコーヒーをトレイのうえに置いた。
神楽は、あわてて否定した。
「いいのよ。西条からの報酬だけでも、びっくりするくらいの黒字だから。あとは、かぐやさんの戸籍をどうにか作って、平凡な生活に入ってもらうことだけね……あ、べつに平凡じゃなくてもいいけど」
ここで泰人は、小声でわりこんだ。
「戸籍を作るなら、名前が必要ですよね? 名前はなんにするんですか?」
ナナコは、さみしそうな笑顔をみせた。
「まだ考え中です」
そう、ナナコは迷っていた。
西条静からつけられた名、西条かぐやという名を、捨てることについて、ではない。
ナナコには、その名を継ぐ意志はなかった。
「西条静は、私の父ではありません。彼は支配者でした。もちろん、そういうふうにふるまいたがる父親も、いるのでしょうが……私は今回のできごとを、同情で終わらせたくはありません。彼がやったことは違法で、倫理的にもゆるされないのですから」
ナナコはそこで、コーヒーに視線を落とした。
ミルクの波が、過去を映し出すように渦を巻いていた。
神楽は、西条静の最期の言葉を思い出す。娘をよろしくと、彼はそう言い残した。彼は、死を迎えるにあたって、じぶんの作り出したクローンを、娘と認識したのだ。それにどんな意味が込められていたのか、神楽にはまだ理解できないでいた。
しかし、どのような意図がこめられていたにせよ、ナナコが西条静を父親としてうけいれる義務は、どこにもなかった。ふたりのすれちがいに、ひとつだけ因縁があるとすれば、それは、西条静がクローンをつくらなければ、目のまえの少女はここに存在しなかった、という事実だけだった。
存在せしめるということは、支配の──より穏当な言い方をすれば、感謝の根拠なのだろうか。四半世紀も生きていない神楽には、わからない問いだった。あるいは、半世紀、一世紀生きても、わからないのかもしれなかった。
重たい空気が流れた。それをやぶったのは、泰人のキャラクターだった。
「それじゃ、ナナコさんは九月から、高校生ですよね。わからないことがあったら、神楽先輩に聞くといいですよ。大学生ですからね。受験対策とかもバッチリ」
このアドバイスに、神楽は笑い始めた。
それにつられて、ナナコも笑った。
「お、俺、なんか変なこと言いました?」
神楽は、
「かぐやさんは、前世の記憶を受け継いでるのよ。博士号持ちの科学者。私が教えられることなんか、ないでしょうに」
とさとした。
泰人はアッと声を上げ、ナナコに頭をさげた。
「どうもすみません……」
「いえ、私は日本で学生生活を送ったわけじゃないですし、いろいろと教えてもらうこともあると思います。よろしくお願いしますね、神楽さん」
ナナコの気さくな頼みに、神楽はしたり顔で答えた。
「そうね……こちらこそ、よろしく」
神楽はそうつぶやいて、シェイクを飲みほした。
カップをトレイにおく。
「さーて、明日は月曜日だし、そろそろ宿題しないとねえ」
「ああ先輩! それを思い出させないでくださいよ!」
泰人の悲鳴に、ほかのふたりは破顔した。
神楽はトレイのうえをかたづけて、席を立つ準備をした。
「それじゃ、新学期にまた会いましょう。あなたはこれから、人生設計とか、いろいろやることがあるだろうし、邪魔はしたくない」
ナナコは、にっこりと笑った。
「もう進路は決めてあります。前世では月に行けませんでしたから、今度こそ宇宙飛行士になって、月の石を持って帰ります。そしてそれを……西条静の博物館に、寄贈しようと思います。妻としてでも娘としてではなく、ひとりの科学者として」
少女の決心に、神楽はほほえみかえした。
「……そうね、みんなよろこぶわ」
神楽は腰をあげた。ほかのふたりも、それに続いた。
トレイを所定の場所にもどし、ファーストフード店をあとにする。
わかれぎわ、ナナコはこう言った。
「ねぇ、神楽さん、泰人さん、私はやっぱり、月代かぐやでも、西条かぐやでもないと思うんです。あたらしい、ひとりの人間なんです。だから、私として生きていきます。これまでも、これからも」
見上げれば、青空。
月の思い出にひたるには、真夏の太陽が、あまりにもまぶし過ぎた。
【完】