第5話 逆張りヲタクは薦めたい!
「それ買うなら、こっちの方がよくない?」
まだ一冊も読んでいない漫画に、対戦相手ができた。
ナオは右手の本を見た。
『リスタート・ヒーロー』の一巻。
片腕に包帯を巻いた男の後ろに、橙色のフードを着た少年が立っている。
モモチが差し出した方には、制服姿の女の子と、パーカーを着た少年が描かれていた。
『知らない弟』。
駅前の本屋。金曜の放課後だった。
「何の漫画?」
「これ、もっと読まれていいと思うんだけどな」
モモチの指が、ナオの右手へ向いた。
「そっちがあんなに売れてるなら」
右手の本には、まだ何の落ち度もなかった。
今朝、花音には約束どおり、漫画を一巻だけ渡した。
付箋も挟まなかった。
「ありがと。休みの日に読むね」と言われ、「うん」とだけ答えた。
うまく貸せたと思う。
放課後、校門で一緒になったモモチとは、数学の宿題の話をしていた。
四十二ページまでか、四十三ページまでか。
手帳を見たら、四十三だった。
用が済むと、しばらく会話がなくなった。
歩きながら、何か話した方がいいだろうかと考える。
教室なら、前にアイカがいるし、次の授業も始まる。
駅の近くに本屋があるか聞くと、モモチは信号の先を指した。
そのまま二人で入った。
漫画売り場に来てからは、黙っている時間がない。
「そっち、無料の一話読んだけどさ」
モモチが言った。
「引退したヒーローが、また戻ってくるんだろ」
「うん。そこから読みたいの」
「戻ってくるのは、読む前から分かるじゃん」
「戻ってこなかったら困るよ」
題名が『リスタート・ヒーロー』なのだ。
試し読みは、もう戦わないと言っていた男が、少年を追いかけて現場へ向かうところで終わっていた。
怪我をした腕が治ったわけではない。
それでも行くところを見たので、その先も見たくなった。
「この二人がどうなるのか、気になるし」
「最初は反発して、だんだん認めるんじゃないの」
「一話のあとも読んだ?」
「そこまでは読んでない」
「じゃあ、まだ分かんないじゃん」
「でも、あれをここまで推すかっていう」
モモチは平台を見た。
同じ表紙が、横にも奥にも並んでいる。
「どこの本屋にも、こんなに置いてあるし」
「……買うときは、あった方がいいよ」
「そういう話じゃなくて。こっちは、そこの棚に一冊ずつしかないんだよ」
ナオは差し出された本を受け取った。
裏表紙へ返す。
一年前に失踪した弟が、帰ってきた。
母は泣いて喜んだ。
けれど、姉だけは気づいている。
この子は、弟ではない。
「……怖いやつ?」
「サスペンス。こっちは先が読めないから」
「こっちは?」
「そっちは、だいたい分かるだろ」
まだ右手の本の話をしていた。
ナオは二冊を重ね、一番上に『知らない弟』を置いた。
「じゃあ、今、こっちの話だけして」
「してるじゃん」
「戻ってきた弟の話、まだ何も聞いてない」
モモチは、表紙の少年を見た。
「……でも、これ、何も知らないで読んだ方がいいんだよ」
ナオも表紙を見た。
薦められてから、少し経つ。
知っていることは、全部、裏に書いてあった。
*
「怖いって、どういう怖さ?」
「幽霊とかは出ない」
「人が怖い方?」
「うん」
「この弟が?」
モモチが黙った。
「……そこは、言わない方がいい」
「じゃあ、面白いところ。一巻で好きなところは?」
「最初の飯食ってるところ」
「ご飯?」
「帰ってきた弟が、嫌いだったものまで普通に食ってるんだよ。母親は、好きだったもの作ったって言ってるのに」
ナオは、表紙の少年へ目を戻した。
「お母さん、気づかないの?」
モモチが口を開けた。
閉じた。
「……読んで」
「今、何か言おうとしたよね」
「何も言ってないだろ」
「言わなかった感じがした」
気になってきた。
家族なら、顔を見た時点で分かりそうなのに。
姉だけが分かるのも、母親が喜んでいるのも、どちらも少し嫌だった。
「顔、そんなに似てるの?」
「似てる。でも、それだけでずっと引っ張る漫画じゃない。結構、早く——」
また、止まった。
ナオは本の縁を持ち直した。
「モモチ、これ薦めるの下手じゃない?」
「知ってから読むともったいないんだよ」
「買う前に、少しは知りたいんだけど」
言いながら、棚の端にある冊子を見つけた。
試し読み、と書かれている。
「あ、これ?」
「そう。一話の途中まで」
ナオは冊子を開いた。
モモチも横から覗きかけ、ナオが見ると、一歩下がった。
玄関に、少年が立っていた。
母親が抱き締める。
女の子は少し離れたところで、その顔を見ている。
次のページでは、三人が夕食を囲んでいた。
弟の好きだった料理が、いくつも並んでいる。
母親は、ちゃんと食べていたのかと聞き、少年の皿に料理を足した。
少年は、薬味も一緒に口へ入れた。
姉の箸が止まる。
ナオは一度、前のページへ戻った。
母親は、さっきからずっと笑っている。
その顔を見てから、続きをめくった。
「……お母さん、怪しい」
隣で、モモチが息を吸った。
「言わないで」
「まだ何も言ってない」
「そのままでいて」
モモチは、閉じていた口を少し曲げた。
ナオは冊子へ顔を戻した。
途中まで来たら、最初に気になっていたヒーローの方を、いったん忘れていた。
母親が席を外す。
姉が、少年を問い詰めた。
昔のことを話せても、二人だけの約束は分からない。
少年が、スマホを出す。
次をめくると、裏表紙だった。
ナオは、紙を二枚まとめてめくっていないか確かめた。
裏表紙だった。
「ここで終わるの?」
「一話は、そのあとがいいんだけど」
「だから、そこで切ってるんでしょ」
「まあ、買わせるための試し読みだし」
そういうことは、普通に言えるのか。
ナオは冊子を元へ戻した。
買う方の本にはフィルムがかかっている。
中は見られない。
「……これも買う」
モモチが笑った。
「面白そうだろ」
「うん。試し読み、うまい」
「俺も同じこと言ってたじゃん」
「同じことは言ってなかった」
ナオは二冊の値段を確かめた。
一冊分のつもりで来たので、財布も出して中を見た。
買える。
今日は、お菓子を買わずに帰ろう。
二冊を持ったままレジへ向かうと、モモチが下の本を見た。
「そっちも買うんだ」
「そっちを買いに来たの」
*
二冊とも、紙のカバーをかけてもらった。
朝、花音に渡した一冊ぶん、鞄には隙間があった。
一冊目は、すんなり入った。
二冊目を押し込むと、筆箱が横へ倒れた。
「先に、どっち読む?」
店を出たところで、モモチが聞いた。
「決めてない」
「こっちは一巻、すぐ読み終わると思う」
「分かってるけど」
ファスナーを閉じた。
どちらも、続きが気になっているところまで読んでしまった。
家に着いて最初に開ける方を、今ここで決めなくてもいいと思う。
「読んだら、一巻の最初——」
「それも、読んでからにして」
「まだ何も——」
「今日は、そこまでにしよ」
モモチは口を閉じ、鞄を肩にかけ直した。
ナオは、朝の花音を思い出した。
渡した漫画のことを、いつ話してくれるだろう。
土曜か、日曜か。
読んだら教えて、と送ろうとしていたけれど、まだ送っていない。
今は、送らなくてもいい気がした。
「じゃあ、また月曜」
角で別れ、ナオは少しだけ歩く速さを上げた。
二冊なら、夕飯のあとには読み終わりそうだ。
あ。
数学は、四十三ページまでだった。
*
「面白かった」
月曜の朝、ナオが言うと、モモチは鞄から出しかけていた筆箱を止めた。
花音の席は、まだ空いていた。
「だろ」
「まだ、どっちか言ってない」
「……弟の方じゃないの?」
「両方」
ナオは二冊を机へ置いた。
カバーを少し開いて、『知らない弟』を上にする。
「お母さん、最初から知ってたんだね」
「うん」
「あれ、びっくりした。分かってて、あの子の好きなもの作ってたのが」
喜んでいるように見えた食卓で、姉だけが何も知らなかった。
「母親が怪しいって言う人、多いんだよ」
モモチが言った。
「でも、怪しいのと、全部やってるのは別だから」
「モモチは、誰がやってると思ったの?」
「……母親」
ナオは顔を上げた。
「一緒じゃん」
「俺が読んだとき、まだそんなに言われてなかったし」
「先に間違えたんだ」
「途中の予想だろ」
それは、ナオのもそうだった。
モモチが、開いている本へ指を伸ばす。
「ここ、ちゃんと見ると——」
「待って。まだ言いたいところある」
指が、机の端へ下りた。
「最後、お姉ちゃんが警察に全部話すところ。ずっと誰かに黙っててって言われてたじゃん」
ナオは、巻の後ろへページを送った。
「でも、自分が黙ってたことも話すんだね。男の子と約束してたことも」
「まあ、人が死んでるからな」
「うん。だから、そこまで来たら話してほしかった」
ナオは、母親がスマホを差し出すコマへ指を置いた。
「お姉ちゃんだけに言わせなかったのも好き」
「俺は、そこまで喋らせなくても分かるかなって思ったけど」
「私は聞きたかった」
「その前に、もう分かってるじゃん」
「分かってても、本人が言うところが見たいの」
ナオは本を閉じた。
ちゃんと面白かったと言った。
それなのに、好きなところでまた引っかかる。
「モモチが薦めたんだよね、これ」
「薦めた。今も薦めてる」
「そう聞こえないとき、あるよ」
モモチは少し考えた。
「……母親が普通に笑ってるところは、よかっただろ」
「そこは、怖かった」
「だから、いいんじゃん」
ナオは表紙を見た。
それは、そうだった。
*
「で、ヒーローの方も面白かった」
下の本を抜く。
モモチは、表紙の男へ目を落とした。
「結局、昔みたいに戦えるの?」
「戦えない。右腕、治ってないし」
「じゃあ、少年の方が助けるんだ」
「もう当てなくていいから、読んで」
ナオは一巻を開きかけて、止めた。
見せたいところはあった。
でも、そこだけ見せても、その前が分からないとよくない。
「一話の続きだけでも」
「どこまで?」
「一巻の最後」
「ほぼ全部じゃん」
「でも、ちゃんと一回勝つから。戻ってきても弱いままです、だけじゃなくて」
「そこで終わるの?」
「ううん。そのあと、電車が止まって——」
口を閉じた。
「……何も知らないで読んだ方がいいかも」
モモチが、こちらを見た。
ナオも見た。
今のは、聞いたことがあった。
「分かっただろ」
「ちょっとだけ」
ナオは、開きかけていた一巻を閉じた。
そのまま、二冊とも机の端へ寄せる。
「二巻も買おうかな」
「弟の方?」
「両方。どっちも続き気になる」
あのあと電車がどうなるのか。
本物の弟はどこにいるのか。
二冊とも、ここでやめられる終わり方をしていなかった。
「教えてくれてありがと」
ナオが言うと、モモチは筆箱を机へ置いた。
「何も知らない方が面白かっただろ」
「うん。あんまり喋らなくて正解だった」
「俺、結構喋ったけど」
「ずっと『リスタート・ヒーロー』の話してたから」
モモチは、二冊の背表紙を見た。
「……そっちは薦めてない」
「分かってる」
ナオは『知らない弟』を鞄へしまった。
もう一冊も入れようとして、手を止める。
「でも、昨日から考えてたんだけど。この男の人、モモチも好きだと思う」
「何で?」
「口では、もうやらないって言うのに——」
途中で止まった。
「……そこ、読んでほしい」
「お前も全然説明できてないじゃん」
そうだった。
悔しいので、表紙だけ見せた。




