第3話 逆張りヲタクは話がそれる!
「それ、何のキャラ?」
弁当箱を鞄へしまう途中で、ナオは手を止めた。
隣のモモチの机に、小さなスケッチブックが開かれていた。
描いているのはモモチではない。
椅子を一脚寄せて座っている、同じクラスの男子だった。
襟の高い服を着た、男の人の絵。
長めの前髪の下から、細い目がこちらを見ていた。
口の端が少し上がっているのに、あまり親切にはしてくれなさそうだった。
男子が顔を上げた。
くせのある茶色の髪に、四角っぽい眼鏡。
首には黒いヘッドホンをかけている。
「自分で考えたやつ」
「え、そうなの?」
「うん。まだ設定とかはないけど」
久世律。
朝の出席確認で、名前は覚えていた。
モモチと廊下で話しているのも見たことがある。
ただ、ナオはまだ一度も話していなかった。
「見てもいい?」
律は頷いて、スケッチブックを少し回した。
ナオは椅子から立ち、モモチの机の端へ寄った。
今度は顔だけでなく、肩から先まで見えた。
片手で襟をつまんでいる。
指の曲がり方が自然で、ナオはそこを二度見した。
「手、うまいね」
「顔よりそっちの方が時間かかった」
「自分の手、ずっと見てたもんな」
モモチが言った。
「何も見ないで描くと、つかんでる感じにならなくて」
律は左手で、自分のシャツの襟をつまんだ。
少し引くと、布が持ち上がり、その下にしわが寄った。
「最初、指だけ曲げて、服はそのまま描いてたんだよ」
ナオは、スケッチブックと律の襟元を見比べた。
絵の中でも、つまんだところから斜めにしわが伸びていた。
「あ、ここのしわも描き直したんだ」
「うん。手だけじゃ済まなかった」
律は襟を離して、シャープペンを持ち直した。
向かいで弁当箱を包み終えたアイカも、こちらへ顔を寄せる。
ナオが半歩ずれると、律は机の真ん中へスケッチブックを押した。
「これ、昨日の?」
「うん。服、変えた」
「あ、襟」
アイカが言うと、律は頷いた。
昨日も、この絵の話をしていたらしい。
「久世くんって、美術部?」
「そう」
「こういう絵、部活でも描くの?」
「描くときもある。これは昼休みのやつ」
律はシャープペンを持ち直し、襟の内側へ細い線を足した。
「これさ」
モモチが、描かれた顔へ身を乗り出した。
「『灰の王冠』の、仮面取ったやつに似てない?」
ナオは絵を見た。
「……前髪?」
「あと、目。この、笑ってんのか分かんない感じ」
「ああ。ちょっと分かる」
「そいつ、片目隠れてなかった?」
律が前髪の先をペンで示した。
「こっちは両目出してる」
「いや、髪っていうか、雰囲気。ああいうキャラ、最近多いだろ」
「まあ、好きだから描いてるし」
律は、片側の眉を少し描き足した。
「でも、あの漫画もさ。そこまで持ち上げるほどか?」
ナオはモモチを見た。
シャープペンの先は、まだ律の絵に載っていた。
*
「途中まで読んだ?」
ナオが聞くと、モモチはすぐに答えた。
「出てる分、全部」
「じゃあ、あの人が仲間助けに戻ってきたところも?」
「読んだ。あれで急にいいやつみたいになるの、都合よくない?」
「いいやつになったとは思ってないよ」
「元ヤンが猫拾ったら、実は優しい人でした、みたいなやつじゃん」
「猫は助かってるじゃん」
「猫にはいいやつだろうけど」
律のシャープペンが、紙の上で止まった。
けれどモモチは、ナオの方を見ていた。
「今までのことまで許されるのは違うだろ」
「だから、許したとは言ってない。戻ってきても、お礼言われてないじゃん」
男の方も謝らず、逃げ道だけを教えた。
ナオは、そのやり取りが好きだった。
「言わなくても、そういう空気にはしてる」
「なってないよ。だって、そのあとも——」
ナオは律を見た。
「どこまで読んでる?」
「二巻」
「あ。じゃあ、言わない方がいいか」
「もう、戻ってくるのは分かった」
ナオは口を閉じた。
「……でも、いつかは分かんないから」
ナオは慌てて付け足した。
「それ、フォローになってる?」
律は笑って、消しゴムのかすを手の端で集めた。
その間に、紙の上の男には肩から垂れた布が足されていた。
何度も折り重なったところだけ、鉛筆の色が濃い。
「しかも、あの作者さ」
モモチがまた話し始めた。
「後から別のやつに説明させすぎなんだよ。言わなくても分かるのに」
律が顔を上げた。
スケッチブックの端を、指で二回叩く。
「こっちの感想、終わった?」
ナオは紙の上へ目を戻した。
最初に何の話をしていたかは、ちゃんと覚えていた。
けれど、その話を最後にしたのは、ずいぶん前だった。
「ごめん。手、うまい」
「そこはもう聞いた」
律が笑ったので、ナオも少し笑ってしまった。
*
「この人、悪い人なの?」
今度こそ絵を見ながら、ナオは聞いた。
「まだ決めてない」
「味方だったら、結構好きかも」
「敵だったら?」
「……途中で味方になってほしい」
モモチがこちらを向いた。
「やっぱ、そういうやつ好きなんじゃん」
「好きだよ?」
そこは、一度も否定していない。
ナオはスケッチブックの手前に指を置いた。
「でも、もうちょっと笑ってる顔も見たい」
「これも、ちょっと笑ってる」
「うん。何か知ってて教えてくれない感じの。そうじゃなくて、普通に楽しいときの顔」
律は元の絵を見た。
それから、空いている左下へ小さく輪郭を描き始めた。
「こんな?」
輪郭に前髪が加わった。
目はまだ短い線だけなのに、もう同じ人に見えた。
「あ、好き」
「今、ほぼ髪しか描いてないけど」
「もう分かる」
律は目元を整え、笑った口を描いた。
ナオが見ている間にも、顔の印象が変わっていく。
「ここ、もうちょっと目が見えたら」
「前髪、短くする?」
「長さは、そのままで。横に流すとか」
「こう?」
「うん。あ、いい」
律は一度ペンを離して、二つの顔を見比べた。
「服もこっちの顔だと、襟を開けた方がいいかな」
「それ、いいね。首が見えるくらい」
ナオは自分の襟元へ手を当てた。
「片方だけ開いてるのも好き」
「どっち側?」
「こっち」
律が下の絵へ肩を足す。
さっきの男より、ずっと話しかけやすそうになった。
「最初、笑わせるだけじゃなかった?」
律が言った。
ナオは、開いた襟と横へ流された前髪を見た。
「……そうだった。ごめん」
「襟は俺が言ったんだけど」
律は口の端を上げたまま、開いた襟の形を描き直していた。
ナオは、指を机から引っ込めた。
でも、この顔で笑いながら嫌味を言われたら、かなり好きだと思う。
「俺は、最初の方がいいけど」
モモチが言った。
ナオは隣を見る。
「今のもよくない?」
「いいけど。これだと、普通に親切な人じゃん」
「そういう顔もするかもしれないし」
「最初の方が、何か隠してる感じがあるだろ」
モモチは、上の絵の目元を指した。
「口だけちょっと笑ってるのに、こっち見てない感じ。話しかけても、本当のこと言ってくれなさそうな」
律のペンが止まった。
「目、もう少し横にしたかったんだよな」
「今くらいでよくない? 横向くと、ただ別のやつ見てるみたいになる」
「でも、これだとちょっと睨んでる」
律が上の絵へ顔を近づけた。
ナオも見直す。
最初は、ただ愛想が悪そうだと思った。
けれど、確かに口は少し笑っている。
何かを頼んだら、できるともできないとも言わず、こちらが困るのを待っていそうだった。
「名前聞いても、嘘の名前教えそう」
ナオが言った。
律が顔を上げた。
「あ、それ、いい」
「いいんだ」
「先に名前、何個か考えようかな」
「本当の名前は?」
「あとで」
その決め方でいいのか、ナオには分からなかった。
でも、さっきより少し、この人が何を言うのか聞いてみたくなった。
「私も、こっちが好き」
横からアイカが、上の顔を指した。
「最初の?」
「うん」
「怖くない?」
「笑ったとき、よさそう」
ナオは下の顔を見た。
こちらも笑っている。好きなのは、まだこちらだった。
律は二つの顔をしばらく見てから、その間に、もう一つ小さな顔を描き始めた。
今度は前髪を長いまま残し、口を開けた。
目つきは鋭いのに、眉の力が抜けている。
「あ」
ナオが言うと、律が手を止めた。
「変?」
「ううん。笑うんだ、って思った」
「笑わせろって言ったじゃん」
「そうなんだけど」
出来上がったものを見ると、言ったときに考えていた顔とは違った。
元の顔も隣にあるからかもしれない。
普段はあちらで、ときどきこんなふうに笑うのなら、見てみたい。
アイカも、少し身を寄せた。
「これ、好き」
「歯、もうちょっと見せるか」
律が口元を描き足そうとする。
「いや、そこまで開けると——」
「まだ何もしてない」
モモチの指を、律がペンの先で追い払った。
ナオは笑って、口を挟みかけたのをやめた。
今のままでも好きだったけれど、律がどうするのかも見てみたかった。
*
廊下で、誰かが次の授業の教科書を聞いていた。
ナオは壁の時計を見た。
昼休みは、思っていたより残っていなかった。
「そういえば、モモチとは前から友達?」
律がペンを止めたところで聞く。
「中学、一緒」
「アイカも?」
「うん」
アイカが頷いた。
「クラスは違ったけど」
「モモチ、前からこんな感じ?」
「どんな感じだよ」
本人が聞き返す。
ナオはスケッチブックを見た。
描かれた男の名前はまだ一つも決まっていないのに、別の漫画の不満はいくつも聞いた。
「話してるうちに、違う作品の話になる感じ」
律は短く笑った。
「なる。映画の話してたら、ゲームの話になってたりする」
「関係ある話だろ」
「そのゲーム、俺やってないんだよ」
「だから説明したじゃん」
「長かった」
モモチが何か言いかけたとき、アイカが小さく吹き出した。
目はスケッチブックの右端に向いていた。
「それ、今朝の顔」
ナオも、そちらを覗き込んだ。
余白に、小さな顔が描かれていた。
半分下がったまぶたと、片方だけ上がった眉。口は何か言いかけているのに、もう文句だと分かる。
隣を見た。
それから、もう一度絵を見た。
「……似てる」
「何が?」
モモチがスケッチブックを引き寄せる。
律は、あっさり手を離した。
「これ、俺?」
「他に誰がいるんだよ」
ナオは口元を押さえた。
分かった。
今朝、ケーキ屋の写真をほかの女子にも見せていたときだ。
さっきまで嬉しそうだったのに、急にケーキの大きさの話を始めた、あの顔だった。
「いつ描いたの?」
ナオが聞くと、律はモモチを指した。
「作者の話になったあたり」
「全然、気づかなかった」
「こっち見てなかったから」
モモチは紙へ顔を近づけた。
「いや、こんな口してないだろ」
「今はしてない」
「目も、もうちょっと普通じゃない?」
律が本人の顔を見上げた。
少し考えてから、スケッチブックを手元へ戻す。
ペンが、眉間に短い線を一本足した。
「シワ増やすなよ」
ナオは、今度は声を出して笑ってしまった。




