第2話
ヨハンナ・フォン・ペグニッツは、ヴェンツェルとの婚姻を望まない。その意思は冒頭で明確にされている。
問題は、その下に続く理由だった。
ヴェンツェルは婚約中でありながら、若い女の住居へ夜間に出入りし、医師や家主へ金を払い、その女の子を自邸へ引き取った。婚姻後の信頼を損なう関係を秘しながら婚礼準備を進めた以上、破談の責任はヴェンツェル側にあり、ペグニッツ家が負担した費用についても償いを求める。
末尾にはヨハンナの名と、その代言人であるシグルーンの署名があった。
ヴァンフリートは紙を受け取ると、上から下まで目を通した。
「どこが嘘だ」
「請求額だ」
「帰れ」
「待て。これは交渉というものだ。最初は互いに大きな希望を述べ、徐々に現実へ近づける」
「お前の希望が金だけなら、会計係を雇え。俺は人間の汚れを金額へ直す仕事はしてない」
「不貞も嘘だ」
「ついでみたいに言うな」
ヴェンツェルは帽子の潰れた縁を指で直した。
「大切なものを後へ置くのは交渉の基本だ」
「最初に請求額を出しておいて、何が大切なものだ。お前の名誉は婚礼費より安いらしいな」
「名誉は戻っても腹を満たさない。金は腹を満たす。価値は明らかだろう」
「じゃあ名誉は捨てろ。安上がりだ」
「私の名誉が失われるだけなら構わん」
ヴェンツェルはそう言ってから、少し早く続けた。
「だが、不貞という説明には、もう二人ほど巻き添えがいる。だから一応、訂正しておく必要がある」
ヴァンフリートは紙を机へ置いた。
「一応か」
「私は慎み深いんだ。正義を大声で叫ぶ者は、たいてい他人の金で正義を買う」
「お前は自分の金を惜しんで来た」
「だから信用できる」
「安心しろ。まだ一欠片も信用してない」
ヴァンフリートは婚約解消の通知を指先で押さえた。
「まず、若い女の家へ行ったか」
ヴェンツェルは視線を外した。通りの向こうを行く馬車でも見ているようで、実際には何も見ていなかった。
「訪問したことはある」
「夜に?」
「日が沈んだ後だった」
「夜だな」
「季節によって日没の時刻は変わる。言葉は正確に使え」
「お前が女の家へ入った時、街灯は点いてたか」
「点いていた」
「夜だ。次へ行くぞ」
アエミリアが通知を引き寄せた。
「一度だけではないように書かれています」
「何度か行った」
「何をしに?」
「様子を見に」
「何の様子だ」
「生活の様子だ」
ヴァンフリートは彼の顔を眺めた。
「お前の慈善は日光に弱いのか。夜に女の暮らしを眺める趣味なら、向こうの説明の方がよほど自然だぞ」
「だから違うと言っている」
「違うなら、普通の言葉で話せ。お前は今、女の家へ何度か夜に入り、生活の様子を見たと認めただけだ。立派な不貞の自白になってる」
ヴェンツェルは帽子を膝へ置いた。
「女は病気だった」
先ほどまでよく動いていた指が、帽子の縁で止まった。
アエミリアが聞いた。
「どのようなご病気だったのですか」
「熱だ。ひどい熱だったらしい」
「らしい?」
「医者ではないからな。私は病人の顔色を見て病名を当てるような無責任な趣味は持っていない」
「では、医師が診たのですね」
「そうだ」
「誰が呼んだのですか」
「屋敷の者に手配させた」
ヴァンフリートが口を挟んだ。
「誰の命令で?」
「私の屋敷だ。屋敷の者は私の命令で動く」
「便利な答えだな。お前が呼ばせたのか」
ヴェンツェルは、ほんの少し口を尖らせた。
「そうとも言える」
「他にどう言える」
「病人がいると聞いたので、医者に行く先を一つ増やしてやった」
「それを世間では、医者を呼んだと言う」
「世間は物事を簡単に言いすぎる」
「お前が善行を難しく言いすぎるんだよ。認めると発疹でも出るのか」
アエミリアは通知へ目を落とした。
「医師への支払いも、ヴェンツェル様が?」
「私の会計から出た」
「家賃も」
「家主が待てないと言うのでな。病人を道へ出されては、せっかく呼んだ医者の往診先がなくなる。支出を無駄にしないためだ」
「食事も届けていますね」
「薬だけ飲ませて餓死されては、やはり医者の費用が無駄になる」
ヴァンフリートはアエミリアを見た。
「聞いたか。人助けじゃない。徹底した損失回避だそうだ」
「合理的な男と呼んでくれ」
「死にかけた女を助けたと認めるくらいなら、ケチと思われる方を選ぶのか」
「吝嗇は美徳だ。善人は際限なく頼られる」
「ケチって単語すらもったいぶって言うな」
言い終えたヴェンツェルは、通りの人影を目で追うふりをした。
彼の耳の上だけが、夏の名残のようにうっすら赤かった。
ヴァンフリートはそれを指摘しなかった。代わりに、通知の次の行へ指を移した。
「この女を、どうやって知った」
「知らなかった」
「なら、なぜ病気だと知った」
「子供が来たのだ」
「どこへ」
「私の屋敷へだ」
「母親の病気を訴えに?」
「そうだ」
「見知らぬ子供が、門番を抜けてお前へ会えたのか」
「抜けてはいない。門前で騒いだ」
「何と言った」
「私に会わせろと」
「なぜお前を知っていた」
ヴェンツェルは黙った。
通りの枯れ葉が一枚、机の脚へぶつかり、風向きが変わるまでそこで震えていた。
アエミリアが穏やかに聞いた。
「以前、その子と会ったことがあるのですね」
「一度だけだ」
「その時、何をなさったのですか」
「大したことではない」
「大したことかどうかは、聞いてから決める」
ヴァンフリートが言うと、ヴェンツェルは不満そうに帽子を裏返した。
「少し困っていたから助けた。それだけだ」
「何に困っていた」
「それは今回の婚約と関係がない」
「今回も同じ子供がお前を頼った。十分関係がある」
「では、関係がある範囲だけ話す。以前会った時に、何かあれば頼れと言った」
「何かとは?」
「困ったことだ」
「ずいぶん広いな。迷子から国家転覆まで入る」
「子供相手に契約書を作る奴がいるか。すぐ忘れると思ったんだ」
「お前は忘れた」
「向こうは覚えていた。子供というものは、自分に都合のいい約束だけは正確に覚えている。実に将来有望だ」
「それで、門前へ来た」
「雨の夜にな」
ヴェンツェルは、言ってからまた口を閉じた。
アエミリアの指が通知の上で止まった。
「その夜に、女性の家へ行かれたのですか」
「子供だけ帰して、翌朝に死んでいたら寝覚めが悪い。私は睡眠を大切にする」
「医師を呼んだのも、家賃を払ったのも、食事を届けたのも、よく眠るためですか」
「健康には金が掛かる」
ヴァンフリートは鼻で笑った。
「母親が回復するまで、ずいぶん高い安眠を買ったもんだ」
「私は寝具にも妥協しない」
「それで子供まで自分の屋敷へ引き取った?」
「引き取ったのではない。雇った」
「何の仕事で」
「小姓だ」
「経験は?」
「なかった」
「読み書きは?」
「十分ではなかった」
「計算は?」
「さらに不十分だった」
「よくそんな小姓を雇ったな」
「若者の可能性を買った」
「お前が?」
「安かったからだ」
ようやくヴェンツェルの声に、いつもの調子が戻った。
「経験のある小姓は給金が高い。あの子は衣食住と、わずかな給金で働くと言った。読み書きと計算は覚えさせればいい。将来は安価で有能な使用人になる。これは長期的な投資だ」
「教師も付けたのか」
「命令書を読めない小姓は役に立たん」
「服も用意した?」
「裸で客の前へ出すわけにはいかない」
「母親への送金は、雇った後も続けているな」
「給金の一部を本人が送っている。足りない時は前借りだ」
「返させるのか」
ヴェンツェルは答えなかった。
「帳簿には貸付として記録してある?」
帽子の縁が、彼の指の間でまた少し潰れた。
「会計係が細かなところをどう書いたかまでは知らん」
「お前が知らない帳簿か。珍しいな。さっきまで銅貨一枚でも惜しむ顔をしてたぞ」
「人間には誰しも、見たくない帳簿の一つや二つある」
「前借りを返させてないんだな」
「将来、給金が上がれば返すかもしれない」
「上げる気は?」
「本人の働き次第だ」
「で、働きはどうだ」
ヴェンツェルはしばらく考えるふりをした。
「靴を磨かせれば左右で艶が違う。客の名を二度聞く。走るなと言えば急いで歩く。褒められたものではない」
「解雇するか」
「今は人手が足りない」
「他を雇えばいい」
「新しく教えるのは手間だ」
「今の子にも教えてる途中だろ」
「途中で捨てると、それまでの費用が無駄になる」
「また損失回避か」
「私は一貫した男だ」
アエミリアは微笑みを隠すように、通知へ目を落とした。
「その子は、ヴェンツェル様を慕っているのでしょうね」
ヴェンツェルは即座に答えなかった。
「雇い主として、一定の敬意は払っている」
「決闘の記事を読んだら、喜ばれるでしょう」
「もう読んだ」
また、言わなくてもよいことを口にした顔になった。
「屋敷へ戻ったら、新聞を持って玄関で待っていた。私がルイトポルトを一撃で倒したと思っているらしい。訂正すると教育上よくないので、そのままにした」
「逃げ回ったことは?」
「知らせる必要がない。子供には夢が必要だ」
「お前には崇拝者が必要なんだろ」
ヴァンフリートが言うと、ヴェンツェルは胸を張った。
「自分を正しく評価する人材を育てるのも、雇用主の仕事だ」
「やっと本音が出たな。母親を救ったのは成り行きで、子供を雇ったのは安くて、面倒を見続けるのは投資。その結果、お前を英雄だと思う子供が一人できた」
「美しい結末だろう」
「美談を認めるのが嫌で、全部台無しにしてるところがお前らしい」
「美談は金にならん。新聞社以外にはな」




