第49話
アスターテは、最後まで審理室へ現れなかった。
ギュンターは傍聴席のいちばん後ろで、扉が開くたびに顔を上げていた。書記が入っても、使いの者が入っても、その目はまず外套の色を確かめ、それから興味を失ったように裁定書へ戻った。
裁定が終わると、ギュンターの背が椅子へ深く沈んだ。
リーゼロッテとの婚約は潰れた。オットフリートとルートヴィヒも、欲しがっていた財産と任官を失った。
けれど、自分の外套の内側には、一年分に近い転地支度金の受領書がある。地方へ移れば、領地執行官として帳簿と契約へ触れられる。失った資格は戻らなくとも、もう兄の送金を待って暮らす必要はない。
オットフリートを売り、金と職を得た。
そしてアスターテは来なかった。
十二年間変わらなかったものは、これからも変わらない。変わるはずがない。
ギュンターはそう信じたまま、傍聴席を立った。
法院の正面階段には、朝の雪はもう残っていない。
陽の当たるところはもう乾いていた。日陰ではその残滓が石へ貼りついている。ギュンターは足元を確かめながら下り、その途中でオットフリートの背中を見つけた。
兄は一人で先を歩いていた。
「随分な負け方だったな」
ギュンターが声をかけると、オットフリートは振り返らなかった。
「お前が余計な書簡を出した結果だ」
「書簡がなくても、あの婚約は潰れていた」
「ならば出す必要もなかっただろ!」
「お前だけが得をする婚約へ、なぜ俺が黙ってやる」
オットフリートの歩みが止まった。
二人のあいだへ、屋根から落ちた雫が砕けた。
「お前は、自分が何をしたか忘れたのか」
「忘れていないから、持っている書簡を選んだ」
「選んだつもりでいるのは、お前だけだ」
オットフリートが初めて弟を見た。
「ローエンハイムの小倅に使われたのだ。職を餌にされ、自分から証拠を差し出した」
「その餌すら、お前は十二年用意しなかった」
ギュンターの口元が歪んだ。
「もう、お前の金は要らない」
「そうかこの恩知らず」
オットフリートの顔から、怒りが薄く引いた。
「では、今後は一枚も送らない」
「好きにしろ」
ギュンターは外套の上から受領書へ触れた。
その時、背後から名前を呼ばれた。
「ギュンター・フォン・アーデルスドルフ殿」
法院書記が、階段の上に立っていた。
黒い袖覆いをつけ、赤い封蝋の下りた書面を二通抱えている。その後ろには、もう一人の書記と法院吏がいた。
「刑事予審部からの送達です」
ギュンターは、差し出された封書を見た。
「誰への?」
「あなたへです」
「何の事件だ」
書記は受領欄を示した。
「アスターテ・フォン・ヴァルトハウゼンの申立てに基づく、十二年前の暴行、退出妨害、婚約強要及び脅迫についての刑事予審開始通知です」
外套の内側で、紙が音を立てた。
「アスターテが?」
「はい」
「いつだ」
「四日前に受理されております」
「四日前?」
ギュンターは法院を見上げた。
「先ほどの審理には来なかった」
「民事審理へは出席する必要がございませんでしたので」
書記は淡々と答えた。
「婚約登録は東棟、刑事申立ては西棟で扱います。別の事件です」
同じ屋根の下に、二つの入口があった。
ギュンターは片方だけを見て、建物の中身を知ったつもりでいた。
「待て。十二年前だぞ」
「訴追期限についての異議は、予審においてお申し立てください」
「異議ではない。十二年も黙っていた女が、今さら――」
「今さら、何ですか」
シグルーンの声がした。
彼女はリーゼロッテたちから少し遅れて、階段を下りてきた。手には先ほどの裁定書とは別の、細い封筒がある。
「あなた方は、アスターテ様が今後も申立てをなさらないと約束したのか」
ギュンターが言った。
「いいえ」
「職を用意しただろう」
「刑事手続が始まった場合には、試用内諾を停止できると書いてございます」
「まだ有罪ではない」
「そのため、現時点では停止です」
シグルーンは封筒を差し出した。
「雇用主からの通知をお預かりしております」
ギュンターは受け取らなかった。
「書簡を渡せば、兄の金から離れられると――」
「離れられます。転地支度金の返還も求めません」
「ならば職も守れ」
「それはお約束しておりません」
シグルーンの声は、民事審理の時と変わらなかった。
「職、金銭援助、証拠提出、供述は、全て別の書面にいたしました。免責も、減刑も、恒久雇用も約束してございません」
「言葉の隙間へ罠を置いたのか」
「大きな文字で書きました。あなたは二度読み直し、御自身で署名なさいました」
階段の上から、ヴァンフリートが下りてきた。
アエミリアがその半歩後ろを歩いている。
「先生」
「まだ何も言ってないだろ」
「これから仰るお顔でしたので」
「顔まで監督するな。追加料金を取るぞ」
ヴァンフリートはギュンターの前で止まった。
「俺を騙したのか」
ギュンターが言った。
「俺はお前に金を出した。雇用主は条件つきの席を出した。お前は書簡を出した。誰も無罪は出してない」
「アスターテは申立てをしないと思っていた」
「それはお前が勝手に読んだ契約だ」
ヴァンフリートは、受け取られないままの封筒を見た。
「お前の予想を、契約だと思うな」
ギュンターの顔から、残っていた色が消えた。
「お前たちは、あの女に申立てをさせた」
「しておりません」
シグルーンが答えた。
「現在の婚約を止めるために、アスターテ様の申立ては必要ございませんでした。民事裁定が、今それを明らかにしたばかりです」
「ならば、なぜ」
「御本人が決められたからです」
ギュンターは、封書へ目を落とした。
その名を見れば、十二年前の部屋まで戻れると思っていたのかもしれない。
けれど、封蝋の下にある名は、彼が脅迫状へ書いた名ではなかった。
申立人として記された、アスターテ自身の名だった。
オットフリートは狼狽する弟を横目に笑っていた。
「オットフリート・フォン・アーデルスドルフ殿」
もう一人の書記が呼んだ。
オットフリートがゆっくり振り返る。
「あなたにも、刑事予審開始通知及び家内書庫に対する証拠保全命令がございます」
「私に?」
「婚約拒絶を封じる計画への関与、立会人の排除、事件後の婚約強要への加担、秘密合意、並びに現在の恐喝的交渉についてです」
「弟の行為だ」
返事は、ギュンターの方を見るより先に出た。
「私は何も命じていない」
「侍女を外せと書いた」
ギュンターが言った。
「婚約を拒めない事情を作れともな」
「お前に暴力を振るえとは書いていない」
「終わった後も婚約を進めろと書いたのは誰だ」
「自分のしたことを私へ被せるな」
「やっと兄弟らしくなったな」
ヴァンフリートが言った。
「二人とも同じ言葉を使ってる。悪いのは隣にいる方だ」
「ローエンハイム卿」
シグルーンが呼んだ。
「事実を短くしただけだ」
「もう少し削れます」
「では、二人とも醜い」
「削る箇所を間違えております」
法院書記が、オットフリートへ受領筆を差し出した。
兄弟は並んで書面を受け取った。
先ほどまでは、どちらが相手を売ったのかを争っていた。
今は、どちらが先に相手を売るかを考えている顔になっていた。
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