第48話
裁定は、長くなかった。
裁定官は婚約条件書を取り上げた。
「リーゼロッテ・フォン・ローエンハイムの署名は真正である。本人が条件書を読み、自ら署名したことにも争いはない」
紙が一枚めくられた。
「しかし、署名が本人の手によることと、婚約意思が自由に形成されたことは同じではない」
裁定官は、オットフリートとルートヴィヒの交渉記録を開いた。
「相手方は、婚姻が成立すれば過去の事実を公にする必要はなくなり、成立しなければ公表する権利が残ると告げた。ルートヴィヒも、リーゼロッテが嫁げば古い不幸は眠ったままでいられると述べている」
オットフリートの指が、椅子の肘掛けから離れた。
「相手方は、リーゼロッテが父及び兄の失職、家名の毀損、母方親族の女性に関する過去の公表を恐れていると知っていた。その恐れが婚約を受け入れる主要な理由であることも認識していた」
裁定官の声は変わらなかった。
「真実を公にする権利があることは、その公表を、責任を負わない者の婚姻と交換することまで正当化しない。公表すべき不正であるなら、婚姻の成否にかかわらず公にすべきである。婚姻すれば沈黙し、拒めば公にするという条件は、通常の和解ではない」
法院書記の筆が、乾いた音を立てた。
「また、リーゼロッテは、何が公にされるのかを具体的に知らされていなかった。父と兄の行為、過去の女性が受けた被害、異議禁止及び再調査禁止の条項によって、誰のどの権利を失わせるのか。その重要な内容を知らないまま、包括的な沈黙へ署名を求められた」
アーデルスドルフ側の代言人が立ちかけた。
「その説明をしなかったのは、ローエンハイム家です」
「その点も判断する」
裁定官は先を許さなかった。
「アルブレヒトが娘へ事実を隠したこと、コンラートが記録の経路を変えたことには、それぞれ責任がある。だが、ローエンハイム家が隠した事実を、アーデルスドルフ家が婚姻を得るために利用してよいことにはならない」
アルブレヒトは目を伏せた。
「双方の家に責めるべき行為があったとしても、そのいずれもリーゼロッテ本人の行為ではない」
裁定官は、婚約拒絶申立書を婚約条件書の隣へ置いた。
「リーゼロッテは事情を知った後、家族への処分と家名への不利益を受け入れた上で、登録前に婚約を拒絶した。その時期と経緯から見て、これは都合が悪くなった後の恣意的な翻意ではない。相手方の威迫的な交渉と、婚約条件の重要な内容を知らされなかったことを理由とする拒絶である」
ルートヴィヒの視線が、二つの署名のあいだで止まった。
「よって、婚約登録申請を却下する」
法院書記が新しい行へ筆を移した。
「異議禁止、再調査禁止及び婚姻による争いの終結を定めた条項は、リーゼロッテを拘束しない」
裁定官は続けた。
「本件の婚約解消は、アーデルスドルフ側の責めに帰すべき事情によって生じたものであり、リーゼロッテに過失その他の帰責事由は認められない」
相手方代言人の手が、婚約解消責任を定めた頁へ伸びた。
「しかし、条件書には――」
「その条項は、正当な理由なく婚約を破棄した場合の責任を定めたものだ」
裁定官は彼を見た。
「解消の原因を作った側が、その解消を理由として違約罰を受け取ることはできない。リーゼロッテに対する婚約解消責任及び違約罰の請求は、いずれも認めない」
代言人の手が止まった。
「本件の審理費用は、本人の拒絶を知りながら登録申請を維持したアーデルスドルフ側の負担とする」
裁定官は最後の書面を閉じた。
「なお、この裁定はアルブレヒト及びコンラートの職務上の行為を適法とするものではない。両名に関する記録は職務審査へ送付する。本判断は、別に提出された刑事申立て及び被害供述を根拠としない」
法院書記が裁定時刻を書き入れた。
筆音が止まると、オットフリートが立った。
「この裁定で、ローエンハイム家の行為が許されたと思わぬことです」
「思っておりません」
リーゼロッテは答えた。
「御父君と御兄君は、これから責任を問われる」
「はい」
「家名も傷つくでしょう」
「それも受け入れております」
リーゼロッテは、もう目を逸らさなかった。
「ですから、わたくしは嫁ぎません。父と兄の責任を、わたくしの婚姻で値引きするつもりはございません」
オットフリートの口元が固くなった。
それ以上の言葉は出なかった。
彼は外套を取り、扉へ向かう。ルートヴィヒも、二枚の署名を一度だけ振り返り、父の後を追った。
「負けた人間は、次の審理の話だけは威勢がよくなる」
廊下へ出ると、ヴァンフリートが言った。
「現在形では、もう一つも勝てないからな」
「先生」
アエミリアがたしなめた。
「裁定の要約だ」
「そのような一文はございませんでした」
「法院は肝心なことを省く癖がある」
リーゼロッテは、裁定の記された婚約条件書を見た。
「兄様。喜んでもよいのでしょうか」
「好きにしろ」
「父上と兄上の件は残っています」
「残ってる」
「それでも?」
「法院は感情まで登録してない」
ヴァンフリートは妹を見た。
「お前が嫁がずに済んだことまで、有罪にする気か」
婚約条件書には、署名真正と残された。
その下へ、婚約登録申請却下、婚約解消責任なしと記された。
リーゼロッテの名は消されなかった。
消えたのは、その名を父と兄の負債の支払証書にできるという、アーデルスドルフ家の主張だった。




