第47話
四日後、アーデルスドルフ家は婚約登録申請を取り下げず、リーゼロッテ側へ婚約解消責任まで求めてきた。
審理の日、冬にはまだ早いはずの晩秋の雪は、法院の階段に細く残っていた。
長卓の上には、婚約条件書と婚約拒絶申立書が置かれている。
どちらにも、リーゼロッテ・フォン・ローエンハイムと署名されていた。
彼女はシグルーンの隣に座り、その後ろにはアルブレヒトとコンラート、マルガレーテがいる。向かい側にはオットフリートとルートヴィヒ、その前にアーデルスドルフ側の代言人が立っていた。
ヴァンフリートは、証人として別室に置かれている。
「本件で判断するのは、リーゼロッテ嬢とルートヴィヒ殿との婚約登録である」
裁定官が告げた。
「アルブレヒト卿及びコンラート卿の職務責任は別に扱う。過去の資料は、現在の婚約へどう用いられたか、その限度でのみ採用する」
法院書記の筆が動き始めた。
「婚約条件書への署名が、リーゼロッテ嬢本人によるものであることに争いは?」
「ございません」
シグルーンが答えた。
アーデルスドルフ側の代言人が立つ。
「ならば、話は明瞭です。リーゼロッテ嬢は条件書を読み、御自身で署名し、わたくしが決めましたと明言なさった」
「明瞭なのは、筆跡だけです」
シグルーンは言った。
「署名した事実と、自由に婚約を望んだことを混ぜないでください」
「誰かに手を取られたのですか」
「いいえ」
「閉じ込められたのですか」
「いいえ」
「では、御自身で決めたのでしょう」
「人は脅されても、自分の手で署名します」
シグルーンは婚約条件書を開いた。
「相手方は、婚約を拒めば父と兄の不正が公になり、親族の女性に関する過去も外へ出ると告げた。婚約すれば公にしないとも告げています」
「リーゼロッテ嬢は、その可能性を承知していた」
「ええ」
「ならば、知らずに署名したわけではない」
「脅されていると知って署名すれば、脅迫ではなくなるのですか」
代言人の口が、わずかに止まった。
「不利益を承知で契約することは、世にいくらでもございます」
「婚姻まで売買の棚へ置かないでください。値札を書いたのは、そちらでしょうけれど」
「リーゼロッテ嬢へ具体的な事情を隠していたのは、ローエンハイム家です」
相手方代言人は、アルブレヒトとコンラートを示した。
「御父君は違法な登録停止を告げず、御兄君も記録を改めた事実を伏せた。本人の判断を誤らせた責任があるとすれば、この二人にあります」
「そのとおりです」
シグルーンは即座に答えた。
アルブレヒトが顔を上げた。
「アルブレヒト卿は違法に登録を止めました。コンラート卿は、その経路を追いにくくしました。御二人の責任は、御二人が負うべきです」
「では、ローエンハイム家が自ら招いた不利益を、アーデルスドルフ家へ転嫁するのですか」
「いいえ」
シグルーンはリーゼロッテを見なかった。
「父親の責任を、娘へ転嫁するなと申し上げております」
「これは家同士の婚約です」
「では、なぜ婚約解消責任はリーゼロッテ様一人へ負わせたのですか」
代言人は条件書へ目を落とした。
「署名した当事者だからです」
「署名の時だけ本人で、脅す時だけ家の一員になるのですね」
審理室の奥で、誰かが息を詰めた。
「随分と便利な家族観です。財産を受け取る時には娘の名を使い、意思を問われると家を持ち出す」
「言葉を飾っても、ローエンハイム家の不正は消えません」
「消すよう求めておりません」
シグルーンの声は少しも高くならなかった。
「その責任を、娘の婚姻で支払わせることはできないと申し上げております」
相手方代言人は、オットフリートの交渉記録を開いた。
「公にすると告げた内容は、虚偽の醜聞ではございません。法院職務に関する実在の不正です。真実を明らかにする権利を示したことが、なぜ脅迫になるのですか」
「オットフリート様へ伺います」
シグルーンが言った。
「リーゼロッテ様が婚約を拒めば、過去を公にするおつもりでしたか」
「必要があれば」
「婚約すれば?」
「両家が和解する以上、公にする必要はなくなります」
「法院の不正を明らかにする必要が、御子息の婚礼によって消えるのですか」
オットフリートの指が止まった。
「両家の争いが終わると申し上げている」
「公の不正まで両家の所有物なのですか」
「論点をすり替えないでいただきたい」
「同じ論点です」
シグルーンは交渉記録の一文を示した。
「公表が正しい行為なら、婚姻してもしなくても行えばよい。婚姻すれば取りやめ、拒めば行うのであれば、それは正義ではございません」
紙の上に、オットフリート自身の言葉が残っている。
両家が姻戚となれば、古い不幸を公にする必要はない。
「和解という名前をつけても、差し出したものが沈黙で、求めたものが娘の婚姻なら、それは婚姻の代価です」
「和解には交換が伴います」
「財産を交換なさってください」
シグルーンは答えた。
「人間まで数に入れるから、脅迫になるのです」
「ルートヴィヒ様は、十二年前の行為者ではございません」
相手方代言人が言った。
「叔父の行為を甥へ負わせ、その婚約を否定するのは不当です」
「私どもも、叔父上の行為をルートヴィヒ様へ負わせてはおりません」
シグルーンはルートヴィヒへ向き直った。
「御自身の言葉だけを伺います」
法院書記が交渉記録を読み上げた。
「リーゼロッテ様が嫁がれれば、古い不幸は眠ったままでいられます」
「あなたの発言ですか」
「はい」
「リーゼロッテ様が、過去の公表を恐れて署名しようとしていることは御存じでしたか」
「両家の事情を承知した上での御決断だと思っておりました」
「異議禁止と再調査禁止を条件から外しても、リーゼロッテ様との婚約を望みますか」
ルートヴィヒは、すぐに答えなかった。
「その場合には、条件全体を改めて協議する必要があります」
「あなた御自身は望みますか」
「婚姻は個人の希望だけで決めるものではございません」
「はいか、いいえで」
裁定官が言った。
ルートヴィヒは婚約条件書を見た。
「今の条件を外しては、答えられません」
「十分です」
シグルーンは席へ戻った。
「叔父上の罪を負わせたのではございません。あなた御自身が婚約へ付けた値段を、あなたへお返ししただけです」
リーゼロッテが立った。
「条件書を読みましたか」
相手方代言人が尋ねた。
「はい」
「御自身で署名しましたか」
「はい」
「わたくしが決めましたと仰った?」
「申しました」
「婚約を拒めば、御家族へ不利益が及ぶことも知っていた」
「はい」
「その後、兄君とアイスベルク代言人から事情を聞き、判断を変えた」
「はい」
「ならば、これは強迫ではなく翻意でしょう」
「真実を知って、決め直しました」
「一度した約束を、後から事情を知ったという理由で消すのですか」
「消しません」
リーゼロッテは二つの署名を見た。
「初めの署名も、わたくしのものです。何も知らなかったからではなく、知らされていたことの中で、わたくし一人が嫁げば皆を守れると思って書きました」
「では、婚約意思はあった」
「何と交換されるのかを知った今は、ございません」
「どちらが、あなたの本当の意思なのですか」
「どちらも、わたくしが決めました」
初めの署名は薄く乾き、後の署名にはまだ墨の黒さが残っている。
「けれど、初めのわたくしが、これから先のわたくしにまで署名することはできません」
代言人は裁定官へ向き直った。
「それこそ心変わりです。現在婚姻を望まないのであれば、婚約解消責任を負うべきでしょう」
シグルーンが立った。
「リーゼロッテ様の拒絶申立書を受け取ったのは、登録前ですね」
「そうです」
「現在、御本人が婚約を拒んでいることにも争いはない」
「ございません」
「それでも登録を求める?」
「既に成立した約束だからです」
シグルーンは婚約条件書を閉じた。
「初めは過去を突きつけて署名を取り、今は署名を突きつけて婚姻を取ろうとしている」
乾いた音が、審理室へ響いた。
「相手方が守ろうとしているのは婚約ではございません。脅しの順番です」
最後にヴァンフリートが呼ばれた。
「妹君が婚約を拒むことを望んでいましたか」
相手方代言人が尋ねた。
「ああ」
「では、あなたの意向を受けて、リーゼロッテ嬢が判断を変えた可能性がある」
「俺は全部知ってから自分で決めろと言った」
「事情を伝えたことで、判断へ影響を与えたでしょう」
「真実を知れば判断は変わる」
ヴァンフリートは代言人を見た。
「それを不当な介入と呼ぶなら、次は窓を開けた人間を風の犯人にする気か」
「ローエンハイム卿。簡潔に」
裁定官が言った。
「妹に命令はしていません、家族が助かるとも言っていません、俺の希望は俺のもの、決めたのは妹です。こんな感じでいいか?」
裁定官は呆れた様子でため息を一つついた。
「あなたは妹君の兄だ。公平ではない」
「今ごろ気づいたのか。名乗りを聞き逃したなら、最初からやり直すか?」
「ローエンハイム卿」
「質問への答えは、はいだ」
ヴァンフリートは続けた。
「俺は公平じゃない。だから俺の気持ちじゃなく、妹の署名と相手方の条件書を見ろ。どちらも紙の方が俺より行儀がいい」




