第45話
客間の椅子は、扉が見える向きへ置かれていた。
修道女が並べた時には卓を囲んでいたが、アスターテが一脚だけ動かした。背後を壁へ寄せ、顔を上げれば入口も窓も見える。
暖炉には、薬木を混ぜた薪が燃えている。
甘く苦い煙が細く立ち、窓辺へ吊るされた乾燥草を揺らしていた。
初めに入ってきたのはマルガレーテだった。
十二年は、従姉妹の髪へ淡い銀を置いていた。けれど、扉の前で立ち止まる時の癖は変わっていない。入ってよいかと尋ねる代わりに、相手が顔を上げるまで待つ。
「アスターテ」
「お久しぶりです」
マルガレーテは一歩進み、そこで止まった。
抱擁は求めなかった。
アスターテも椅子を勧めただけだった。
その後から、シグルーンとアエミリアが入ってくる。最後にヴァンフリートが姿を見せた。
「あなたまでいらしたのですね」
アスターテが言った。
「俺も驚いてる。修道院は人選にもっと慎重だと思ってた」
「先生。門前で追い返されなかったことへ感謝なさってください」
アエミリアが言った。
「俺を追い返すと、門番が一日中後悔することになる」
「なぜですか?」
「正しい判断だったか考え続けるはずだ」
「きっと一度も考えません」
アエミリアが答えると、ヴァンフリートは不満そうに椅子へ腰を下ろした。
そのやり取りの間にも、アスターテは廊下を見ていた。
「法院の方も御一緒ですか」
「書記が一人、控え室におります」
シグルーンが答えた。
「あなたが正式な説明を望まれた時だけ、お呼びします。望まれなければ、こちらへ入ることも、あなたの名を記録することもございません」
アスターテは頷いた。
「リーゼロッテは?」
「参っておりません」
「そうですか」
わずかな息が、言葉の後から落ちた。
「御本人が、あなたへ何かを求める形にしたくないと仰いました」
シグルーンは革綴りから一枚の写しを取り出した。
そして卓の向こうへ置いた。
「こちらが、リーゼロッテ様の返事です」
アスターテは紙へ手を伸ばした。
婚約条件書ではなかった。
その成立を拒む申立書だった。
末尾に、リーゼロッテ・フォン・ローエンハイムとある。
幼い手ではない。
庭の落ち葉を拾っていた指が、十二年のあいだに覚えた文字だった。
「この署名は、あの子が?」
「ええ」
「初めの婚約条件書にも、自分で署名したと聞きました」
「その事実は認めておられます」
「偽物だったとは言わなかったのですね」
「言わせませんでした」
シグルーンの返事は短かった。
「何も知らされない中で書いた名まで、なかったことにはしたくないと仰いました」
アスターテは申立書を初めから読み直した。
紙の端が、指の下で微かに鳴る。
「相手は、オットフリートの息子なのですね」
「はい」
「ギュンターではなく」
「甥に当たる方です」
暖炉で薪が割れた。
乾いた音だった。
床へ落ちた小さな金具の音が、ふいにそれへ重なった。
侍女のいない部屋。空の椅子。扉の前に立つ男。外套を掴んだ指。足元へ落ちた留め具。
アスターテは申立書から目を上げた。
客間には、白い壁と暖炉がある。扉は誰にも塞がれていない。
「続けてください」
シグルーンは、もう一枚だけ紙を出した。
現在の婚約条件書から抜き出された、短い条項だった。
十二年前の婚約事件について異議を申し立てず、再調査せず、公表しない。婚姻をもって両家の争いを解決済みとする。
アスターテの名はなかった。
それでも、彼女は一度読んだだけで紙を伏せた。
「わたくしのことですね」
「ええ」
「名を書かなければ、使っていないことになると思ったのでしょうか」
「名を書けば、本人に尋ねなければならなくなりますから」
ヴァンフリートが言った。
「人間は他人の人生を盗む時、宛名だけは丁寧に剥がす」
「ローエンハイム卿」
「悪口だ。法的評価じゃない」
「それは先ほども伺いました」
シグルーンはアスターテへ向き直った。
「リーゼロッテ様は、初めに署名なさった時、この条項があなたの事件を指すとは御存じではありませんでした」
「後から、知ったのですね」
「必要な範囲で」
「わたくしが何をされたかも?」
「ええ」
アスターテの手が、膝の上へ下りた。
袖の中で、右手が左の手首を包んだ。
「それでも、拒んだのですか」
「それを知ったからこそ、御自分の婚姻へあなたの沈黙を持参させることはできないと」
アスターテは何も言わなかった。
薬草の葉が、窓辺でかすかに擦れた。
「わたくしの証言を求めているのではないのですね」
「求めておりません」
「わたくしが何もしなくても?」
「リーゼロッテ様の婚約を争う手続は続けます」
「では、なぜ来たのです」
「あなたの沈黙が、今も他人の手で使われているからです」
シグルーンは伏せられた条項へ触れなかった。
「知らないままでいるかどうかまで、こちらで決めることはできません」
アスターテの視線が、マルガレーテへ移った。
「アルブレヒト様は」
「認めました」
マルガレーテが答えた。
「登録を止めたことも、オットフリートと取り決めたことも」
「コンラートは?」
「記録を変えたことを認めました。初めは父親の命令で、その後は自分の意思で」
「二人とも、職を失うのでしょうか」
「分かりません」
マルガレーテの声は、そこで初めて揺れた。
「けれど、何も失わずに済むとは思っていません」
アスターテは窓を見た。
中庭の霜はもう消え、濡れた土が黒く現れている。修道女が一人、籠を腕に掛けて薬草畑を歩いていた。枯れた茎を切り、まだ使える葉だけを選んでいる。
「わたくしのためにしたことが、十二年かけて戻ったのですね」
「戻ったのは、父上と兄上がしたことだ」
ヴァンフリートが言った。
「お前じゃない」
「けれど、わたくしは助けられました」
「ああ」
「ギュンターの妻にならずに済みました」
「ああ」
「父にも知られず、あの人がここへ来ることもなく、噂を流されることもなかった」
「それも事実だ」
ヴァンフリートは否定しなかった。
アスターテは暖炉の火へ目を落とした。
「初めの冬、門前に馬車が止まるたび、迎えが来たと思いました」
炎が、瞳の奥で小さく揺れた。
「婚約は止まったと聞いても、次の日には覆るのではないかと。ギュンターが父を連れて来るのではないかと。夜中に鐘が鳴ると、寝台から起きて、窓の下へ誰がいるか確かめました」
誰も言葉を挟まなかった。
「二度目の冬にも、三度目の冬にも、誰も来ませんでした。門が開いても、あの人ではなかった。手紙が届いても、婚約を受けろとは書かれていなかった」
アスターテの指が、膝の布をゆっくり離した。
「そうして十二年が過ぎました。わたくしが夜ごと得た静けさには、ローエンハイム家の方々がしたことが入っています。正しくなかったと知っても、それまで嘘になるわけではありません」
「ええ」
マルガレーテが言った。
「あなた方は、わたくしを助けました」
アスターテは続けた。
「そして、わたくしのためだと言って、わたくしの知らないところまで進みました」
「ええ」
「わたくしも、尋ねませんでした」
マルガレーテが顔を上げる。
「婚約が止まった後、何をしたのか、一度も。知れば、また何かを決めなければならない気がしました。もう選びたくなかったのです」
「あなたが背負うことではありません」
「それでも、知らないことで眠れた夜がありました」
アスターテは微かに笑った。
笑みというより、痛みの置き場所を変えただけのように見えた。
「誰も返せと言わなかったから、余計に重かったのです」
「恩返しで話すつもりなら、やめろ」
ヴァンフリートが言った。
アエミリアが彼を見た。
「先生」
「今は甘い言葉の方が有害だ」
ヴァンフリートはアスターテから目を逸らさなかった。
「父上はお前を助けた。父上は手続を曲げた。兄上は記録を隠した。全部あいつらのしたことだ。お前が恐怖を差し出して帳尻を合わせる必要はない」
「ローエンハイム卿、言い方を――」
「お前の沈黙は、うちの家が持ってる借用証じゃない」
シグルーンの声を越え、言葉が落ちた。
「父上が正しいことをした分だけ、お前が返済する義務が生まれるわけでもない。間違ったことをした分まで、お前が証言して洗ってやる必要もない。恩と責任を一緒の袋へ入れると、持って逃げる奴が必ず出る」
アスターテは彼を見た。
「あなたは、御家族を救いたくないのですか」
「救うという言葉が嫌いなだけだ。自分の失敗を他人の犠牲で包み直す時、人はたいていそう呼ぶ」
「先生は、御家族に対しても容赦がございませんね」
アエミリアが言った。
「家族だから割引しろってか。罪まで家族価格にしたら法院が潰れるかもしれないだろ」
「あなたは法院ではございません」
シグルーンが言った。
「だから潰れてない」
アスターテの口元が、ほんの少し動いた。
けれど、すぐ申立書へ目を戻した。
「リーゼロッテは、父親と兄を助けるために、婚姻を受けようとしたのですね」
「それだけではございません」
シグルーンが答えた。
「御名前も知らなかったあなたを守るためにも、自分一人が嫁げばよいと考えておられました」
「やはり、昔と変わらないのですね」
アスターテの声がやわらいだ。
「庭へ落ちた葉を、全部拾おうとしていました。両腕からこぼれているのに、まだ拾うのです」
マルガレーテは目を伏せた。
「覚えていたのですね」
「ええ。あの子は、わたくしの膝へ置けば、葉が冬を越せると思っていました」
「今度は、すべてを御自分で抱えることをやめました」
シグルーンが言った。
「御父君の責任は御父君のもの、御兄君の責任は御兄君のものだと、オットフリート様へ御自身で伝えました」
「わたくしの沈黙も?」
「あなたのものだと」
窓の外で風が起こった。
薬草畑を歩いていた修道女の衣が膨らみ、切られた枯れ茎が籠の中で揺れた。
「昨夜、客舎の扉が風で閉まりました」
アスターテが言った。
「音を聞いた時、わたくしは水差しを落としました。十二年も、この壁の中で暮らしているのに」
右手が、卓の端へ置かれた。
「男の人が扉の近くへ立つと、窓までの距離を見ます。背後から靴音がすると、道を譲る前に振り返ります。ギュンターの名を聞けば、今も手が冷たくなる」
廊下の向こうから、法院書記が紙をめくる音がした。
アスターテの指が一度だけ縮んだ。
「怖くなくなったから、お話しするのではありません」
彼女はマルガレーテを見た。
「あの日、マルガレーテは、わたくしをあの人の妻にしませんでした」
マルガレーテの唇が動いた。
声にはならなかった。
「今度は、わたくしがあの子を妻にさせません」
「あなたが証言なさらなくても、リーゼロッテ様は争えます」
シグルーンが静かに言った。
「分かっています」
「ローエンハイム家への恩を返すためだけなら――」
「それだけではありません」
アスターテは、伏せていた婚約条項を表へ返した。
名のない紙が、朝の光を白く返した。
「わたくしは十二年前、黙ることを選びました。正確には、その前に沈黙を婚約の条件として押しつけられ、その後で、公開の刑事手続を望まないと決めました」
一語ごとに、紙の上へ置くように話した。
「あの時の選択を、間違いだったとは思いません。あの時のわたくしには、あれが必要でした」
指先が、名のない条項へ触れる。
「けれど、黙ったことで、わたくしの沈黙がアーデルスドルフ家のものになったわけではありません」
アスターテは紙を押し戻した。
「それをリーゼロッテの婚姻へ持っていくことは、許しません。ローエンハイム家を無傷にするためでも、アルブレヒト様のしたことを正しかったことにするためでもありません」
彼女の目が、今度は扉へ向いた。
「怖いまま、決めます」
しばらくして、マルガレーテが尋ねた。
「何をしてほしいのですか」
十二年前にも、同じ問いを口にした。
あの夜は、若い従姉妹の手を握りながら。
今は触れずに待っている。
「法院書記を呼んでください」
書記は文書箱を抱えて入ってきた。
黒い袖覆いをつけた痩せた男だった。扉のところで止まり、アスターテへ一礼する。
「扉はいかがいたしましょう」
アスターテは入口から窓までを見た。
「今は開けたままにしてください」
「承知いたしました」
書記は扉から離れた場所へ席を作った。




