第9話
法院の朝は、夜会よりも静かであった。
高い窓から落ちる光は石の床まで届かず、壁際に灰色のまま溜まっている。
人の声も靴音も、天井へ昇る途中で冷えて、薄くなって戻ってきた。
それでも傍聴席は埋まっていた。
夜会にいた者もいる。アエミリアの署名を見せられた者も、彼女がリーナへ吐いた言葉を聞いた者もいた。
彼らは華やかな衣装を控えていたが、アエミリアを見る目だけは、あの夜と変わらなかった。
ヴァンフリートは席へ着くなり、傍聴席を振り返った。
「見るな」
アエミリアへ言った。
「見ておりません」
「首が半分後ろを向いてる」
「気になるのです」
「あれは壁と同じだ。違うのは、勝手に意見を持つところだけだ」
彼は机の上へ支払書を置いた。
帳簿の控えと仕立屋の注文控えは、その下に隠れている。
和解書だけは封筒へ入れたまま、鞄の奥にあった。
裁定官が入ると、さざめきは途絶えた。
ハルデンブルク家の代言人が立ち、まず婚約破棄に至った事情を述べた。
婚礼の準備が始まってから、アエミリアの支出は増えていった。
エーリヒは節度を求めたが聞き入れられず、持参金から大きな額が失われた。
そのうえアエミリアは、リーナへ嫉妬し、身分を盾に人前で侮辱した。
エーリヒは婚約者として長く耐えた。
しかし金銭感覚の違いと、リーナへの脅迫を見過ごすことができず、やむなく婚約を破棄した。
語り口には淀みがなかった。
夜会で生まれた話が、衣装を改めて法院へ来たようだった。
「支出には、ゾンダーブルク令嬢ご本人の署名があります」
相手方の代言人は支払書を掲げた。
「金額も用途も記されており、偽造の疑いはありません。ご本人が婚礼準備として承認した金です」
裁定官がアエミリアへ目を向けた。
「署名は、あなたのものですか」
「はい」
「金額も確認しましたか」
「確認しました」
「リーナ・フォン・メルフェルトへ、身分に触れる発言をしたことは?」
「それも事実です」
傍聴席の空気が、わずかに動いた。
アエミリアの代言人が、最初から三つの不利な事実を認めたのである。
相手方の代言人は、ヴァンフリートが何を争うつもりか測りかねたように彼を見た。
「ローエンハイム代言人。署名の真正について、異議はありませんか」
「ない」
ヴァンフリートは座ったまま答えた。
「本物だ」
「では、この支出をアエミリア様が承認したことも――」
「本人も署名したと言ってる。だから筆跡鑑定ごっこは終わりだ。次へ行こう」
相手方の代言人は口を閉じた。
裁定官が眉を寄せる。
「言葉を慎みなさい」
「内容は慎んでる。署名は争わない」
ヴァンフリートは支払書を受け取り、机へ伏せた。
「ただし、署名したことと、自分のために浪費したことは別だ」
「用途も婚礼準備と明記されています」
「便利な言葉だな。婚礼と書けば、誰の懐へ入れても花嫁が使ったことになる」
彼は下に置いていた帳簿の控えを出した。
「これはハルデンブルク家自身の帳簿だ。違うなら今のうちに言え」
相手方の代言人がエーリヒと短く言葉を交わした。
「帳簿の真正は争いません。ただし、いずれも婚姻後の生活を整えるための支出です」
「それは後で聞く」
ヴァンフリートは頁を開いた。
「まず、この支払いだ。古い債務が返されてる。借金したのは誰だ」
「ハルデンブルク家です」
エーリヒが答えた。
「アエミリアか?」
「違います。しかし婚姻すれば、家計は一つになります」
「まだしてない」
「将来の負担を減らすことは、彼女にとっても利益だった」
ヴァンフリートは次の頁を開いた。
「じゃあ、この屋敷の修繕は?」
「婚姻後の住居を整えるためです」
「屋敷の持ち主は」
「我が家です」
「修繕した分だけ、アエミリアの持分が増える約束は?」
エーリヒは答えず、相手方の代言人が立った。
「貴族家の婚姻に際して、夫となる側の邸宅を整えることは珍しくありません。アエミリア様も、将来その屋敷を利用する予定でした」
「予定は財産じゃない」
ヴァンフリートの声は低かった。
「お前が婚約を破棄したあとに残ったものを数えろ。借金が減ったのはハルデンブルク家。綺麗になった屋敷もハルデンブルク家のものだ」
彼は帳簿を閉じなかった。
そのまま別の記載へ指を移した。
「この衣装と宝飾は?」
相手方の代言人が答える前に、裁定官が帳簿を確認した。
「受取人は、リーナ・フォン・メルフェルトとなっています」
「そういうことだ」
ヴァンフリートはアエミリアを見なかった。
「署名した女は何を受け取った?」
答えはなかった。
金は消えていない。
借金のない家と、修繕された屋敷と、別の女を飾る衣装に変わっていた。
どれも婚約破棄の後まで、ハルデンブルク家の側へ残っている。
エーリヒが口を開いた。
「アエミリアは、婚礼費の使途について私へ判断を委ねていました」
「なら使ったのはお前だ」
「承認したのは彼女だ」
「だから金を出すことには同意した。お前が誰へ配るかまで選んだ証拠は?」
「広い裁量を認められていたのです」
「お前が選んだんだな?」
エーリヒは答えを止めた。
ヴァンフリートは小さく笑った。
「忙しい話だ。金を出した責任はアエミリア、使い道を決めた功績はお前。帳簿の頁をめくるたび持ち主が変わる」
傍聴席の視線が、初めてアエミリアから外れた。
まだ一斉ではない。
しかし人の目は、風に押された草のように、少しずつ同じ方角へ傾き始めていた。




