第42話
午後には薄氷が消えていた。
軒から落ちる雫が、石敷きの同じ場所を絶え間なく濡らしている。空にはもう冬の白さが差していた。庭の土は黒く戻り、裸木の根元から古い落ち葉の色が現れていた。
応接の間には、法院書記がいた。
昨日までと同じ黒い袖覆いをつけ、窓際の小卓へ記録用紙を広げている。午後の面会が、婚約登録の暫定停止中に行われる正式な通知であること、出席者の氏名、書面の受渡し時刻を記してから、筆を置いた。
オットフリートはルートヴィヒを伴って現れた。
濡れた外套を従者へ渡し、手袋を片方ずつ外す。その動作には急ぐところがなく、申立書の置かれた卓を見ても、歩みの速さは変わらなかった。
ルートヴィヒは父より半歩後ろにいた。
リーゼロッテと目が合うと礼をしたが、以前のように婚約者の近さを求めてはこなかった。
「本日は、リーゼロッテ様の最終回答を伺えると聞いております」
オットフリートが言った。
「私の依頼人から、正式な御指示を受けました」
シグルーンは申立書を一部、彼の前へ置いた。
「リーゼロッテ・フォン・ローエンハイムは、婚約条件書へ御自身が署名した事実を認めます。ただし、その署名が重要な事情を伏せた脅迫の下で行われたとして、自由な婚約意思を争います。婚約の成立を拒み、婚約登録申請の却下を求めます」
オットフリートは書面を初めから末尾まで読んだ。
視線が、リーゼロッテの署名で止まる。
「先の署名と同じ字ですな」
「同じ方がお書きになりましたから」
シグルーンが答えた。
「一度は婚約を受け入れ、今度は拒む。二つの意思のうち、都合のよい方だけを本物にするおつもりですか」
「どちらの署名も本物です。どの事情の下で書かれたかを、法院に判断していただきます」
オットフリートは申立書を置いた。
「リーゼロッテ様。あなたは御自分でお決めになったと、以前は仰ったはずです」
「ええ」
「では、なぜ今になって覆されるのです」
「初めに決めた時、何を守るための婚姻なのかを知らされておりませんでした」
「御家族を守るためであることは、御存じだったでしょう」
「父と兄が何をしたのかは、存じませんでした」
「知った結果、見捨てると?」
リーゼロッテの右手は、膝の上で重ならなかった。
「見捨てるとは申しておりません」
「では、何と?」
「父と兄のしたことを、わたくしの婚姻で隠さないと申し上げています」
オットフリートの指が申立書の端へ置かれた。
「言葉を整えても、結果は変わりません。アルブレヒト卿が行った登録停止は、正式な職務調査へ送られる。コンラート卿の記録処理も同じです。御兄君は職を失うかもしれない。御父君が長年築いた名も、無傷では済まないでしょう」
「伺っております」
「それでも拒むと?」
「はい」
「御自分の婚姻一つで、避けられることです」
シグルーンの隣で、ヴァンフリートはまだ黙っていた。
椅子の肘掛けへ置いた指だけが、一度動く。アエミリアはそれを見たが、声をかけなかった。
「避けるのではございません」
リーゼロッテが言った。
「わたくしが嫁げば、父と兄の責任を問わないと約束することになります。アスターテ様の被害を再び調べず、あの方が十二年前に選んだ沈黙を、あなた方の利益のために使うことにもなります」
「アスターテ殿は、既に静かな生活を得ている」
「それを、あなたがお決めになるのですか」
「事件を外へ出さなければ、その生活は続く」
法院書記の筆が動いた。
オットフリートはその音に気づき、わずかに顔を向けた。
「今のは、事実を申し上げたまでです」
「御発言は、そのように記録いたします」
シグルーンが言った。
「婚姻が成立すれば事件を外へ出さず、成立しなければ外部へ知られる可能性がある。その関係を、事実として御説明なさったと」
「脅迫だと言いたいのか」
「名称を決めるのは後です。今は、あなたが何を仰ったかを残しております」
オットフリートはシグルーンからリーゼロッテへ目を戻した。
「御父君と御兄君が負うものを、よくお考えになることです。あなたがこの婚約を拒めば、二人は職務上の責任を負うことになる」
「それは父と兄が負うものです」
リーゼロッテは答えた。
「わたくしの婚姻ではありません」
軒から落ちた雫が、窓の外で弾けた。
小さな水の輪が石の窪みへ広がり、次の雫が落ちるまで、誰も言葉を継がなかった。
法院書記の筆だけが、リーゼロッテの返事を紙へ移した。
「御家族も、それを望んでいるのですか」
オットフリートが尋ねた。
「これは、わたくしの返事です」
「家の婚姻は、あなた一人のものではない」
それまで黙っていたヴァンフリートが口を開いた。
「お前は本人から返事をもらうと、今度は家族を探すのか。書面の宛名くらい読め。リーゼロッテの婚約だ。父上の再婚でも、兄上の婿入りでもない」
「ローエンハイム卿」
シグルーンが呼んだ。
「妹は話し終えた」
「あなたへ許可を差し上げた覚えはございません」
「俺も貰った覚えはない」
「先生」
アエミリアが低く呼んだ。
「分かってる。黙った時間は長かった。少しくらい利息を取らせろ」
オットフリートの目が細くなった。
「あなた方は、感情で家を壊そうとしている」
「お前は婚姻で家を買おうとしたんだろ」
ヴァンフリートは椅子へ深く座り直した。
「しかも代金は、被害を受けた女の沈黙と、娘の一生だ。随分と景気のいい買い物だな。払うのがお前じゃないところまでよくできてる」
「ローエンハイム卿。これ以上は、私が申し上げます」
シグルーンはオットフリートへ向き直った。
「現在の申立ては、御父君と御兄君の責任をリーゼロッテ様へ負わせないこと、アスターテ様の権利をリーゼロッテ様の婚姻条件として処分しないことを求めるものです。過去の行為について誰が何を負うかは、別に審査されます」
「アスターテ殿御本人は、何も申し立てていない」
「ですから、私どもも御本人に代わって申し立ててはおりません」
「ならば、過去の話を持ち出す資格もない」
「現在の婚約条件に、過去を再調査せず、公表せず、異議を申し立てないとの条項を入れたのは、そちらです」
シグルーンの声は変わらなかった。
「過去を婚約へ持ち込んだ方が、相手にだけ過去を語るなと命じることはできません」
ルートヴィヒが、初めて父より前へ出た。
「リーゼロッテ様」
呼びかけは静かだった。
「これが、あなたの最終の御返事ですか」
リーゼロッテは彼を見た。
「初めて、何を問われていたのか知った後の返事です」
ルートヴィヒは口を閉じた。
彼の前には、婚約条件書の写しと拒絶の申立書が並んでいた。どちらにも同じ女の名があり、彼は一方にだけ手を伸ばしかけた。
けれど、触れる前にオットフリートが書面を取った。
「受領したことは、内容を認めたことを意味しない」
「当然です」
シグルーンが答えた。
「受領した事実だけを記録いたします」
法院書記が時刻を書き入れた。
オットフリートは申立書を折らずに革挟みへ収め、席を立った。ルートヴィヒも続いた。
扉の前で、オットフリートが一度だけ振り返る。
「この選択で失われるものを、後になって他人のせいにはなさらぬことです」
「御忠告として記録いたしますか」
シグルーンが法院書記へ尋ねた。
「必要ない」
オットフリートは言った。
「では、御発言はここまでといたします」
扉が閉じると、廊下を遠ざかる二人分の足音が聞こえた。
一方は重く、もう一方は、それより少し遅れていた。




