第40話
夜のあいだに、庭の浅い池へ薄氷が張った。
水面を閉ざすほど強い氷ではなかった。葦の影を淡く抱き、朝の光が触れるたび、硝子よりも細い亀裂を音もなく伸ばしている。冬はまだ庭へ入りきらず、その薄い境ばかりを白く残していた。
リーゼロッテの小客間には、昨夜借り受けた二枚の写しが置かれていた。
秘密合意は左にあり、婚約条件書は右にある。一夜を挟んでも、二枚のあいだは詰まらなかった。卓上燭台の蝋だけが深く減り、消えた芯の先に黒い花のような煤が残っている。
シグルーンが訪れた時、リーゼロッテは既に同じ椅子へ座っていた。
法院書記の席は用意されていない。
昨日までが、父と兄のしたことを記録へ移す時間だったなら、今朝は、リーゼロッテが何を選ぶかを家族の耳から離して確かめる時間だった。
「眠れましたか」
「横にはなりました」
「それは別の答えですわね」
シグルーンは外套を椅子の背へ掛けた。
「ですが、今は問い直しません」
革綴りを開きながら、二枚の写しを見る。
「これから申し上げるのは、婚約を拒むべき理由ではございません。拒んだ場合、あなたと御家族に何が生じ得るかです」
「はい」
「聞き終えた後、今日中に御決断なさる必要もございません」
「最後まで、お話しください」
窓から落ちた光が、婚約条件書の端へ細く差した。
シグルーンは初めに、アルブレヒトの供述確認を卓へ置いた。
「御父君が昨日認められた行為は、親族関係を伏せた職権濫用として正式な争点になります。あなたが婚約登録への異議を続ければ、秘密合意と供述は現在の婚約だけでなく、御父君御自身の職務についても調査を求める根拠となります」
「父上は、職を失いますか」
「その可能性はございます」
シグルーンは、それより軽くも重くも言わなかった。
「ただし、処分はまだ決まっておりません。御父君が婚姻を止めた事情も、アスターテ様をギュンターから遠ざけた結果も、判断の対象になります。けれど、正しい結果を得たという理由だけで、親族関係の不申告や正式な手続を外れたことが消えるわけではございません」
「わたくしが婚姻を受け入れれば?」
「昨日の供述も、合意書も消えません」
「けれど、調べられにくくなるのですね」
「あなた御自身が異議を取り下げ、再調査を求めず、両家の争いを婚姻によって解決済みと認めれば、アーデルスドルフ側はそのように主張するでしょう」
シグルーンの指が、婚約条件書にある異議禁止の条項へ置かれた。
「御父君の職務責任が必ず問われないとは申せません。法院が独自に動く可能性もございます。ですが、娘であるあなたが争わず、両家も解決したと申し立てるなら、事実へ辿る道は今より細くなります。それが、この条項を置いた方々の利益です」
リーゼロッテは左手を膝へ置いた。
右の親指が、その上へ重なる。
「兄上は」
シグルーンは、コンラートの供述確認へ紙を替えた。
「十二年前、御父君の命令に従った部分については、当時の立場が考慮されるでしょう。ですが、後年に参照番号と分類を変えたことは、御兄君御自身の判断だったと認めておられます」
「記録を扱う職には、戻れませんか」
「少なくとも、調査中は権限から外される可能性が高いでしょう。その後については、私から軽い見通しを差し上げることはできません」
「重い見通しなら?」
「職を失うこともございます」
庭の薄氷に、枝から雫が落ちた。
小さな穴が一つ開き、その周囲から円い亀裂が広がっていく。離れた窓の内側まで、音は届かなかった。
「兄上は、自分で認めました」
「ええ」
「父上も」
「ええ」
「それでも、わたくしが拒めば、わたくしのために二人が職を失ったと言われますね」
「そう言う方はおられるでしょう」
「違うのですか」
「あなたの拒絶が、十二年前の行為を作るわけではございません」
シグルーンは静かに答えた。
「ただ、あなたの婚姻によって、それを争いにくくすることはできます」
リーゼロッテの親指が、左手へ少し深く沈んだ。
「家は、どうなりますか」
「ローエンハイム家は、長く法院に関わってきた家です。その家の当主が手続を曲げ、長男が記録の経路を変えたとなれば、信用は落ちます。任官や取引をためらう方も出るでしょう」
シグルーンは窓へ一度だけ目を向けた。
「人は、アスターテ様を婚姻から救ったことと、その被害を正式な経路から消したことを、いつも丁寧に分けて聞いてはくれません。短い話の方が好まれますから」
「ローエンハイム家が、身内のために事件を隠した、と」
「そのように語られる可能性がございます」
朝の光は右の紙から左の紙へ移り、オットフリートの署名を白く照らした。その下に並ぶアルブレヒトの名は、墨の太さまで違うのに、二人が交わした沈黙だけは同じ幅を持っていた。
「婚約解消の責任も、こちらへ求められます」
シグルーンが言った。
「アーデルスドルフ側は、あなたが自分の意思で署名し、後から理由なく拒んだと主張するでしょう。婚姻準備財産と継続収益をめぐる拘束、準備費用、家同士の損失について争うことになります」
「わたくしが支払うのですか」
「そう求められます」
「負ければ?」
「財産上の不利益は生じ得ます。ですが、婚姻そのものを強制されるわけではございません」
「勝てると、お約束はなさらないのですね」
「勝てないとも申しません」
シグルーンの返事には、励ましも脅しもなかった。
「御署名が真正であることは争いません。争うのは、署名が自由な婚姻意思を示すかどうかです。あなたは十二年前の全容を知らされず、拒めば御父君と御兄君の責任、そして母方親族の女性の名誉が害されると告げられて署名なさいました。その事情を、現在までに得た書面と供述で示します」
「アスターテ様に、証言していただくのですか」
「現在の婚約については、アスターテ様の証言がなくても争えます」
リーゼロッテの指が止まった。
「お会いにならなくても?」
「少なくとも、あなたを婚姻から離すために、過去の被害をもう一度話していただく必要はございません」
シグルーンはそこで言葉を切った。
「けれど、あなたが拒めば、アーデルスドルフ側が過去の事件を外へ出す危険は残ります。事件記録の一部閲覧制限を求め、アスターテ様の氏名と被害内容を必要以上に広げない方法は取れます。ですが、存在そのものを記録から消すことはいたしません。完全に誰にも知られないと、お約束することもできません」
「わたくしが嫁げば、あの方の名は守られますか」
「オットフリート様が公表する理由は減るでしょう」
「では」
「それを、守られるとは申しません」
シグルーンは、二枚の写しの間へ手を置いた。
「アスターテ様の沈黙を利用して婚姻を成立させた方が、その沈黙を今後も守ると約束する。その約束を得るために、今度はあなたが婚姻する。それでは、沈黙をどう扱うか決める者が、十二年前と変わりません」
窓辺の氷が、日の熱に耐えきれず、端から水へ戻り始めた。
白く曇っていた面が薄く透け、その下で沈んだ枯れ葉が見える。凍っているあいだ消えていたわけではない。ただ、見えなかっただけだった。
リーゼロッテは秘密合意の写しを手に取った。
アスターテの署名はない。
次に婚約条件書を取る。
こちらには、彼女自身の署名がある。
二枚を重ねかけ、やめた。
代わりに上端を揃え、秘密合意の二枚目と、現在の異議禁止条項を横へ並べる。古い文面はアスターテに何も尋ねず、その名を外へ出さないと決めていた。新しい文面はリーゼロッテの名を借り、同じ沈黙を未来へ運ぼうとしている。
「わたくし一人が払えば済むと思っておりました」
リーゼロッテが言った。
声は低かったが、昨夜までのどの返事よりも遠くへ届いた。
「わたくしがアーデルスドルフ家へ嫁ぎ、父上と兄上のことを問わず、名も知らなかったあの方のことも話さなければ、ほかの方は今までどおり暮らせるのだと」
右手の親指が、左手から離れた。
「けれど、この婚姻で払わされるのは、わたくしだけではありません」
リーゼロッテは、二枚のあいだに残った細い隙間を見た。
「アスターテ様の沈黙まで、持参させるおつもりだったのですね」
シグルーンは頷かなかった。
依頼人の言葉へ同意を与える代わりに、革綴りから白い用紙を取り出した。
「私へ、どのように命じられますか」
リーゼロッテは顔を上げた。
「婚約の成立を拒みます」
窓の外で、薄氷の一角が水へ沈んだ。
「父と兄のしたことも、隠さないでください」
「御父君と御兄君の処罰を求める、という御指示ですか」
「いいえ」
リーゼロッテは答えた。
「何を負うべきかは、わたくしが決めることではありません。ただ、わたくしの婚姻を理由に、調べないでほしいとも、書かないでほしいとも申しません」
「承りました」
「以前の署名を、偽物とは言わないでください」
「もちろんです」
「あれは、わたくしが書きました」
リーゼロッテは婚約条件書の末尾へ触れた。
「何も知らされないまま、それでも自分で選んだつもりで書いた名です。その時のわたくしまで、いなかったことにはしたくありません」
「では、署名の真正は認め、自由な婚約意思を争います。婚約登録申請の却下と、拘束条項の効力を認めないよう求めます」
「お願いいたします」
シグルーンが書面を作り始めた。
窓から落ちる水滴の影が、白い用紙の上を静かに横切っていく。リーゼロッテは一度も文面を急かさず、書き上がった一行ずつを読んだ。
最後に筆を取る。
右の親指は、もう左手を押さえなかった。申立書の端をまっすぐ留め、その下へ、自分の名を書いた。
リーゼロッテ・フォン・ローエンハイム。
婚約条件書と同じ筆跡だった。
けれど、今度は、その名より先に他人の沈黙が置かれてはいなかった。




