第36話
父の書斎には、前日の母の居間になかった火があった。
よく乾いた薪が暖炉の奥で崩れ、時折、赤い火の粉を暗い煙突へ投げ上げている。壁を埋める法令集の革背は、その明かりを鈍く返していた。長い年月、他人の争いを裁くために集められた本ばかりである。
机の上には、六通の書簡と、無地の封筒から出た脅迫状が置かれていた。
火はよく燃えていたが、その紙まで温めることはできなかった。
アルブレヒトは机の向こうへ座り、コンラートは暖炉のそばに立っていた。法院書記が扉に近い小卓へ記録用紙を広げると、シグルーンは二人の正面へ椅子を置いた。
「リーゼロッテは」
アルブレヒトが尋ねた。
「隣室でお待ちです」
シグルーンが答えた。
「ここへ呼べ」
「本日の確認が済んでから、私がお伝えします」
「家族の前で聞かせられない話か」
「御家族の話である前に、私の依頼人が婚姻を決めるための事実です。確かめ終えていない供述を、御家族の都合のよい順で聞かせることはいたしません」
アルブレヒトの視線がシグルーンに留まった。
「私の娘だ」
「私の依頼人です」
「父上、諦めろ」
ヴァンフリートは窓辺の椅子へ浅く腰掛けた。
「家族は本人より先に本人の幸福を決めたがる。お前が法服を着てやると職権濫用になり、父親の顔でやると愛情になるらしい。便利な着替えだ」
「ローエンハイム卿」
「まだ何も聞いてない。口を閉じるには早い」
「では、早めに練習なさってください」
アエミリアは法院書記の隣で、前日に作った写しを開いた。
シグルーンが、無地の封筒を指した。
「こちらの書簡を、十二年前に御覧になりましたか」
「ああ」
アルブレヒトの返事には、ためらいがなかった。
「アスターテ様がギュンターから性暴力を受け、その被害を利用して婚約を迫られていることも、御存じでしたか」
「マルガレーテから聞いた」
「アスターテ様が、婚姻だけを止め、被害の公表も刑事手続も望んでいないと訴えられたことは?」
「それも聞いた」
「婚約登録を停止なさったのは、あなたですか」
「私だ」
薪が一本、火の中で折れた。
落ちた灰が赤く明滅し、すぐに白くなった。
「停止に先立つ、アスターテ様御本人の正式な異議申立書は見つかっておりません」
「出されていない」
「御自身とアスターテ様との親族関係も、申告なさっておりませんね」
「していない」
「それでも、登録担当へ停止を命じた」
「そうだ」
アルブレヒトは、机上の紙を見なかった。
「翌日には登録が行われるはずだった。正式な異議を出すなら、アスターテ本人の供述が必要になる。事情を記録へ入れ、関係者を呼び、何があったかを何度も話させることになる。あの娘は、それを望まなかった」
「だから、自分で止めた」
ヴァンフリートが言った。
「ほかに間に合う方法はなかった」
「人間が規則を破る時は、いつも時計のせいにする。時計は弁明しないからな」
「お前は、登録させた方がよかったと言うのか」
「まだそこまで言ってない。質問へ余計な答えを足すな。父上は昔から採点される前に模範解答を書き換える癖がある」
アルブレヒトの眉が、わずかに寄った。
「まさか息子に採点される日が来るとはな」
「長生きはするものだろう?」
シグルーンは二人の間へ声を入れた。
「登録を止めた後、オットフリート様と会われましたね」
「ああ」
「何を取り決めたのですか」
アルブレヒトはすぐには答えなかった。
その目が、机の右端へ移る。
ヴァンフリートは椅子へ背を預けたまま、その動きを見ていた。
「今度はどの引き出しだ」
「ローエンハイム卿」
「母上は祈祷書の後ろだった。父上が神より工夫のない隠し方をしていたら、息子として寂しい」
アルブレヒトは内衣のポケットから小さな鍵を取り出した。
机の右にある深い引き出しを開ける。
中には革張りの文書箱が一つだけ入っていた。家の紋はなく、法院の受領印もない。錠前の周りだけ革が黒く擦れ、幾度か鍵を差した跡が残っている。
「取り出される前に、位置を記録してください」
シグルーンが法院書記へ言った。
書記が席を立ち、引き出しの深さと文書箱の向きを確かめる。時刻を書き終えるまで、アルブレヒトは箱へ触れなかった。
「最後に開いたのはいつですか」
「リーゼロッテの婚約条件を受け取った夜だ」
「御母堂と同じ夜ですね」
アエミリアが言った。
「夫婦は、別々の部屋で同じ十二年前を開いたわけか」
ヴァンフリートが呟いた。




