↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
82/195

第35話

 夕刻、シグルーンはリーゼロッテと二人きりで向かい合った。


 応接の間には、まだ婚約条件書が置かれている。


 窓の外では日が庭の向こうへ沈み、枯れ葉の縁に残った光が、風のたび金色から灰色へ変わっていた。部屋へ差し込む明かりは弱く、条件書の封印を乾いた血のように暗く見せている。


「被害を受けた方の御名前が分かりました」


 シグルーンは言った。


「アスターテ・フォン・ヴァルトハウゼン様。御母堂の従姉妹に当たられる方です」


 リーゼロッテの右の親指が、左手へ触れた。


 シグルーンは、無地の封筒から出た脅迫状の写しを条件書の横へ置いた。


「十二年前、アスターテ様はギュンター様との婚約を拒もうとなさいました。その後、ギュンター様から性暴力を受け、その被害を利用して婚約を迫られました。婚約を受ければ沈黙し、拒めばアスターテ様の方から誘ったと世間へ語る。その脅迫が、こちらの書簡に残っています」


 リーゼロッテは写しへ目を落とした。


 誰がどちらを誘ったか、世間は自分で決める。


 そこだけを何度も読むように、視線が動かなかった。


「アスターテ様は、婚約だけを止め、被害を公にせず、刑事事件にもしてほしくないと望まれました。御父君とコンラート様が、その後どの手続を選び、相手方と何を取り決め、記録をどう扱ったのかは、御本人たちと書面を確認してからお伝えします。今ここで言葉を足せば、どなたかを庇うか、確かめていない罪まで着せることになります」


 シグルーンは婚約条件書の一節を示した。


 過去の婚約事件について、異議を申し立てず、再調査せず、公表しない。


 文字は以前と同じだった。


 けれど、その向こうに立つ者は、もう名のない女ではなかった。


 リーゼロッテの親指が、左手へ深く沈んだ。


 やがて顔を上げる。


「アスターテ様は、今も生きていらっしゃるのですか」


「はい」


 シグルーンは答えた。


「御存命です」


 リーゼロッテは頷いた。


 それ以上は尋ねなかった。


 右の親指が離れると、白く残った痕へ、ゆっくり血の色が戻っていった。


 婚約条件書には、まだリーゼロッテの署名がある。


 その署名の下で閉じられようとしていた十二年は、もう過去だけのものではなかった。


 夕暮れの白い紙の上へ、アスターテという名が置かれている。


 生きている者の名として。


 誰かの善意に守られ、同じ善意によって隠された者の名として。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。