第35話
夕刻、シグルーンはリーゼロッテと二人きりで向かい合った。
応接の間には、まだ婚約条件書が置かれている。
窓の外では日が庭の向こうへ沈み、枯れ葉の縁に残った光が、風のたび金色から灰色へ変わっていた。部屋へ差し込む明かりは弱く、条件書の封印を乾いた血のように暗く見せている。
「被害を受けた方の御名前が分かりました」
シグルーンは言った。
「アスターテ・フォン・ヴァルトハウゼン様。御母堂の従姉妹に当たられる方です」
リーゼロッテの右の親指が、左手へ触れた。
シグルーンは、無地の封筒から出た脅迫状の写しを条件書の横へ置いた。
「十二年前、アスターテ様はギュンター様との婚約を拒もうとなさいました。その後、ギュンター様から性暴力を受け、その被害を利用して婚約を迫られました。婚約を受ければ沈黙し、拒めばアスターテ様の方から誘ったと世間へ語る。その脅迫が、こちらの書簡に残っています」
リーゼロッテは写しへ目を落とした。
誰がどちらを誘ったか、世間は自分で決める。
そこだけを何度も読むように、視線が動かなかった。
「アスターテ様は、婚約だけを止め、被害を公にせず、刑事事件にもしてほしくないと望まれました。御父君とコンラート様が、その後どの手続を選び、相手方と何を取り決め、記録をどう扱ったのかは、御本人たちと書面を確認してからお伝えします。今ここで言葉を足せば、どなたかを庇うか、確かめていない罪まで着せることになります」
シグルーンは婚約条件書の一節を示した。
過去の婚約事件について、異議を申し立てず、再調査せず、公表しない。
文字は以前と同じだった。
けれど、その向こうに立つ者は、もう名のない女ではなかった。
リーゼロッテの親指が、左手へ深く沈んだ。
やがて顔を上げる。
「アスターテ様は、今も生きていらっしゃるのですか」
「はい」
シグルーンは答えた。
「御存命です」
リーゼロッテは頷いた。
それ以上は尋ねなかった。
右の親指が離れると、白く残った痕へ、ゆっくり血の色が戻っていった。
婚約条件書には、まだリーゼロッテの署名がある。
その署名の下で閉じられようとしていた十二年は、もう過去だけのものではなかった。
夕暮れの白い紙の上へ、アスターテという名が置かれている。
生きている者の名として。
誰かの善意に守られ、同じ善意によって隠された者の名として。




