第34話
「アスターテ様から聞いたことは?」
「婚約を断ると伝えた後、侍女も立会人もいない部屋で、ギュンターから……意思に反して力を加えられた、と」
庭の枝が窓硝子を擦った。
細い爪で、入れてくれと頼むような音だった。
誰も、窓を開けなかった。
「この書簡を渡されたのは、その後ですか」
「ええ。婚約すれば何も公にしない。拒めば、アスターテの方から自分を誘ったと話す。何を訴えても、世間には合意だったと思わせる。その意味だと、あの子は言いました」
シグルーンは伏せていた書簡へ目を落とした。
「書簡そのものから、婚約と沈黙を交換する脅迫は読み取れます。ただし、『あの日』の内容まで、この二行だけで確定することはできません」
「分かっています」
「御母堂の供述は、アスターテ様から被害を聞いたという証言です。御本人の供述そのものではございません」
「ええ」
「ですから、御本人が何を話すかを、こちらで決めることもできません」
「それでよいのです」
マルガレーテの返事だけが、わずかに早かった。
「アスターテ様は、何を求められたのですか」
「婚約だけを止めてほしい、と」
「刑事手続は?」
「望みませんでした。父にも世間にも知られたくない。何をされたか、法院の記録へ残したくない。何度も人前で話させないでほしい、と」
マルガレーテは腕に手を添えた。
「誰がどちらを誘ったか、世間が決める。あの子は、それを恐れていました。被害を話せば、同じ話を何度も人の前でさせられることも。家名と自分の名が、起きたことより長く残ることも」
「父上へは、どこまで話した」
ヴァンフリートが尋ねた。
「すべてです」
「その言葉は嫌いだ。人間が『すべて』と言う時は、たいてい端に小さな例外が印刷されてる」
「例外はありません」
「アスターテが性暴力を受けたことは」
「話しました」
「ギュンターが、それを利用して婚約を迫ったことも」
「話しました」
「この書簡は?」
「夫の前で開きました。二人で読みました」
「アスターテが公表も刑事手続も望まなかったことは」
「一言も省かず、伝えました」
ヴァンフリートは無地の封筒を見た。
黄ばんだ紙の上に、朝の光が薄く積もっている。触れれば崩れるのは紙ではなく、その周りに十二年かけて固められた静けさの方に思われた。
「父上は、被害も、脅迫も、アスターテの望みも知っていた。その上で、刑事担当へ渡さないと決めた」
「ええ」
「暗闇で道を外したんじゃない。灯りを持って、外れた方へ歩いた」
「はい」
「そして兄上はそれに追従した」
マルガレーテは否定しなかった。
「アルブレヒト様は、何と仰ったのですか」
シグルーンが尋ねた。
「アスターテをギュンターの妻にはしない。けれど、刑事事件にもさせない。自分が処理すると」
「処理」
「はい」
「この書簡は、どうなさいました?」
「読み終えた後、私へ返しました。写しは作らず、正式な事件へも入れませんでした」
「証拠になり得ることを、アルブレヒト様は理解なさっていましたか」
「理解していました。だから入れなかったのです」
暖炉の灰は白いままだった。
火のない部屋で、アエミリアの筆が乾いた紙を擦る。その音だけが、少しずつ何かを切り分けていった。
「証拠だと分かって、記録の外へ置いた」
ヴァンフリートが言った。
「アスターテ様の希望を守るためだったのですか」
アエミリアが尋ねた。
「初めは、そうでした」
マルガレーテは答えた。
「初めは?」
「夫は翌朝、オットフリートと会うと言いました。その日の夕方には、婚約登録は止まる、相手方も申請を取り下げると」
「何を条件に?」
シグルーンが尋ねた。
「聞いておりません」
「秘密の取り決めがあったことは?」
「夫は話しませんでした。私も尋ねませんでした」
「聞けなかったのか」
ヴァンフリートが言った。
「聞かなかったのか」
マルガレーテの視線が、暖炉へ移った。
「どちらでも、答えは同じでしょう」
「便利だな。人間は結果が同じだと、選ばなかったことまで無罪にできる」
「ローエンハイム卿」
シグルーンの声が止めた。
「それ以上は、アルブレヒト様御本人へ尋ねます。オットフリート様と何を取り決め、どの手段で登録を止めたのか。コンラート様が、どの記録へ何を行ったのか。御母堂の沈黙を使って、こちらで告白を完成させることはいたしません」
「分かってる」
ヴァンフリートは六通の書簡を見た。
「だが、父上が何も知らなかったという逃げ道は、もうない」
「ええ」
マルガレーテが言った。
その一語は、紙より薄く、どの封蝋よりも固かった。
「以前、母上は俺へ、この封筒を捨てたと言ったな」
「ええ」
「父上にも?」
「いいえ。夫は、原本を私へ返しました。その後、私が捨てたかどうかを尋ねたことはありません」
「質問しないことで、答えを作ったわけか。仲のいい夫婦だ」
「あなたには、分からないでしょう」
「分かりたくもない。夫婦の美徳で証拠が消えるなら、独身には公益がある」
「先生」
アエミリアが咎めたが、声は弱かった。
「では、なぜ残した」
ヴァンフリートは尋ねた。
「何も残さなければ、いつかアーデルスドルフ家が、誘ったのはアスターテだったと言い出した時、あの子の言葉を守るものがなくなります」
「正式記録からは消して、相手の嘘に備えて箪笥へ残した」
「そうです」
「同じ紙に、昼の顔と夜の顔を作ったわけだ」
マルガレーテは無地の封筒へ触れた。
指先は潰れた角を避け、何も書かれていない中央へ置かれた。
「守ったつもりでした」
「守ったんだろうさ」
ヴァンフリートの声には、笑いがなかった。
「アスターテは、自分の名を公にしないでほしいと頼んだ。父上は、事件そのものを公から消した。似てるが、同じじゃない」
「違いは、分かっています」
「十二年後にな」
「ええ」
「救助と隠蔽は、同じ部屋に住める。家賃を払わされるのは、大抵あとから来た奴だ」
窓の外では、朝霜が消え始めていた。
濡れた土の上に細い光が差し、落ち葉の縁だけを明るくする。庭は何事もなかったように冬へ近づいていた。
「その後、アスターテ様とは?」
シグルーンが尋ねた。
「婚約が止まった後、一度だけ会いました。何を行ったのかは話しませんでした。あの子も尋ねませんでした」
「現在も御存命ですか」
「はい」
「居所を伺えますか」
「御本人の許しなく、お話しできません」
「結構です」
シグルーンはすぐに答えた。
「こちらから突然訪ねることもいたしません。まず、現在の婚約に、十二年前のアスターテ様の沈黙が使われようとしていることだけをお伝えください。私たちと会うか、書面を出すか、何もしないかは、御本人に選んでいただきます」
「分かりました」
「十二年前に選べなかったことまで、今度はこちらで選びません」
マルガレーテは頷いた。
法院書記が無地の封筒と脅迫状を別々の薄紙へ包み、発見場所と保管経緯を目録へ記した。封筒には家紋も名もなかったが、受領番号が与えられると、十二年前に拒まれた居場所をようやく紙の上へ得た。
新しい封蝋が落とされる。
赤い滴の中へ法院印が沈んだ時、ヴァンフリートは顔を背けなかった。




