第33話
その朝、マルガレーテの居間には火がなかった。
秋と冬の境にある薄い寒さが、庭から窓硝子を越えて入り込み、使われていない暖炉の灰を白く冷ましていた。
祝いの花はすでに取り払われていたが、窓辺には浅い花瓶が一つ残され、名も知らない若葉が水の中で細い根を伸ばしている。
マルガレーテは、法院の封を施された文書箱を見た。
「暖炉を消したのか」
ヴァンフリートが尋ねた。
「古い紙をお持ちになると伺いましたので」
「母上が証拠を火から遠ざけるとは、随分と時代が進んだな」
「あなたの持ってくる紙は、火へ入れなくても人を焼きます」
「紙に罪はない。読める字で書く人間が悪い」
アエミリアが文書箱を抱え直した。
「先生。開封を先にいたします」
「見ろ。家族の感動的な再会より紙が優先された」
「感動する予定がおありでしたの?」
マルガレーテが尋ねた。
「ない。だから傷つかずに済んだ」
シグルーンは、同席した法院書記へ頷いた。
書記が箱の法院印を確かめ、開封時刻を記録する。
赤い封蝋が割れると、中から六通の書簡が薄紙に包まれたまま現れた。
原本はすべて机上の白布へ置かれた。
侍女を外すと書かれた第一の書簡。
戻る刻限を示した第二の書簡。
婚約を拒めない事情と土地管理の約束を並べた第三の書簡。
そして、四日の空白を挟み、結果は聞いた、と始まる第四の書簡。
「オットフリート様の筆跡と私印であることは、現在比較中です」
シグルーンが言った。
「ギュンター本人は、兄君から受け取った原本であると認めています」
マルガレーテは最初の三通を順に見た。
指は紙に触れず、視線だけが文字を追った。
四通目へ移った時、その速さが止まった。
「御存じの文言がございますか」
シグルーンが尋ねた。
「いいえ」
「では、日付でしょうか」
「十二年前の日付なら、いくつも覚えています」
「この日も?」
マルガレーテは答えなかった。
窓の外で、小鳥が一羽、若い枝へ下りた。枝は重さを受けてしなり、葉の裏へ隠れていた雨粒を庭へ落とした。
「顔は証拠にならないんだろ」
ヴァンフリートが言った。
「でしたら、御母堂の顔を読もうとなさらないでください」
シグルーンが止めた。
「読んでない。証拠がしまってありそうな家具を探してる」
「ローエンハイム卿」
「母上は四通目で止まった。あの棚を一度見た。今は机の右の引き出しを見ないようにしてる。俺は親不孝だが、視力までは捨ててない」
マルガレーテは息子を見た。
「家へ帰ってくるたび、嫌なところばかり父親に似ていきますね」
「安心しろ。父上なら、気づいても知らない顔をする。俺は気づいたら全員へ言う」
「自慢にはなりません」
「父上よりまし、は自慢じゃない。本当だぞ? 床より高い椅子みたいなもんだ」
マルガレーテの視線が、机へ落ちた。
四通目の冒頭には、結果は聞いた、とある。その後へ、相手方の家は話を外へ出すことを望んでいない、と続いていた。
「母上」
ヴァンフリートが言った。
「以前、十二年前の夜に預かった無地の封筒は、捨てたと言ったな」
「ええ」
「どこへ捨てた」
「十二年前のごみ箱をお探しになるつもりですか」
「燃やしたとは言わなかった。破いたとも、水へ流したとも言わなかった。捨てた、としか言わなかった」
「言葉尻です」
「俺の飯の種だ。家族だからって粗末にはしない」
マルガレーテは答えなかった。
「本当に処分なさったのですか」
シグルーンが尋ねた。
「それとも、そう仰っただけですか」
暖炉には火がなかった。
灰の上へ、煙の名残さえ立たない。
マルガレーテは椅子を離れ、机の右へある細身の書棚へ歩いた。硝子戸の内側には、家の記録ではなく、詩集や祈祷書が並んでいる。
一冊の祈祷書を抜くと、背後から小さな鍵が出てきた。
「神の後ろへ隠したのか」
ヴァンフリートが言った。
「人間の手よりは安全でした」
「神は証拠保全の資格を持ってないぞ」
「あなたよりは口が堅いでしょう」
「案外そうでもない」
鍵は、机の最下段にある浅い引き出しを開いた。
中から、白い布に包まれた封筒が出てきた。
家紋も、宛名も、差出人の印もない。
紙は年月に黄ばみ、片方の角だけがやわらかく潰れていた。封蝋を使わず、差し込み口を糊で閉じた跡が残っている。既に開封され、もう一度折り返されていた。
マルガレーテは封筒を机へ置いた。
「捨てられませんでした」
シグルーンが法院書記へ目を向ける。
書記は封筒が取り出された場所と時刻を記し、マルガレーテへ確認を求めた。
「この封筒は、十二年前から先ほどの場所で?」
「いいえ。初めの数年は、私の衣装箱に置いていました。その後、ここへ移しました」
「その間、開封なさいましたか」
「何度か」
「最後はいつです」
「現在の婚約の話を聞いた夜です」
ヴァンフリートの目が細くなった。
「リーゼロッテの婚約が決まってから、読み返したのか」
「ええ」
「それでも、ないと言った」
「リーゼロッテへ何が関係するのか、まだ分かりませんでした」
「分からない紙を十二年隠すとは、随分と信心深いな」
「分かっていたから、出せなかったのです」
マルガレーテの声は静かだった。
シグルーンは封筒へ手を伸ばさず、先に尋ねた。
「中の書簡は、どなたから、どなたへ宛てられたものですか」
「それは、お読みになってからお話しします」
「御説明によって読む順序を変えたくない、ということでしょうか」
「はい」
シグルーンは頷いた。
「では、そのようにいたします」
法院書記が封筒の外形と紙質、開封状態を記録する。
中の書簡を取り出すと、二つに折られた紙が一枚だけ現れた。日付はある。宛名も署名もなかった。
シグルーンは一度だけ全体を読み、それから紙を机へ置いた。
アエミリアが写しを作るため、筆を取った。
「声に出してください」
マルガレーテが言った。
シグルーンは、最初の一文を読んだ。
「『婚約すれば、あの日のことは二人だけのものになる』」
アエミリアの筆が、紙の上を進んだ。
「『拒めば、誰がどちらを誘ったか、世間は自分で決める』」
そこで筆が止まった。
窓辺の枯れ葉が風に触れ、花瓶の水へ淡い影を揺らした。外には朝の庭があり、朝霜に濡れた土の上を光が静かに移っている。
部屋の中だけが、時を失った。
シグルーンは書簡を伏せた。
ヴァンフリートは何も言わず、六通の中から二通目と三通目を引き寄せた。
侍女が戻る刻限。
婚約を拒めない事情。
さらに、四通目の冒頭を読み返す。
結果は聞いた。
その三つの言葉が、無地の封筒の周りへ集まった。
「先生」
アエミリアが呼んだ。
ヴァンフリートは答えなかった。
いつもなら、人間の卑劣さへ先に名をつけた。
この時は、まだ一つも選ばなかった。
法院書記の筆先から、余った墨が一滴落ちかけた。男は寸前で筆を上げ、吸取紙へ黒い点を残した。
その小さな音の後で、マルガレーテが口を開いた。
「その書簡を受け取った方は、アスターテ・フォン・ヴァルトハウゼンです」
その名が初めて机の上へ置かれた。
「あなたとの御関係は?」
シグルーンが尋ねた。
「私の従姉妹です。幼い頃は、姉妹のように育ちました」
「書簡は、御本人から?」
「ええ。婚約登録の直前の夜、あの子がこの屋敷へ持ってきました」
「御自身で御覧になったことから、お話しください」
「アスターテが一人でこの部屋へ来たこと。この封筒を私へ渡し、私がその場で開いたこと。話しているあいだ、あの子の手が震えていたことです」
マルガレーテは膝の上へ手を重ねた。
十二年を経た指は静かだった。




