第31話
初めの書簡には、挨拶がなかった。
翌日の面会について、侍女はこちらで外す、とだけ書かれている。年長の立会人には、刻限が改まったと伝えてある。その二行の後に、天気の話でも続きそうな余白があった。
しかし、続かなかった。
「面会の相手は、どなたですか」
シグルーンが尋ねた。
「当時の婚約相手だ」
「御名前は?」
「今は必要ない」
「必要かどうかは、私が判断します」
「書簡に名はないのが全てだ」
ギュンターは紙を見た。
シグルーンは最初の書簡を置き、二通目を開いた。
侍女が戻るのは鐘三つの後になる。
お前が気にしていた刻限については、これで不足はないはずだ。それまでに話を済ませろ。
アエミリアの筆が止まった。
「ギュンター様は、なぜ侍女の戻る刻限を気になさったのですか」
「婚約の話をする時間が必要だった」
「侍女がいては、できないお話でしたか」
「家同士の条件だ。余計な耳は少ない方がいい」
「年長の立会人まで、別の刻限を伝えられています」
「兄がしたことだ」
「あなたが望んだことではないと?」
「兄が勝手に整えた」
ヴァンフリートは書簡の一文を指した。
「『お前が気にしていた』と書いてある」
「口頭で、時間があるか聞いた」
「勝手に整えた兄貴へ、お前が時間を聞いたわけか。随分と息の合わない共犯者だな」
「共犯と決めるな」
「安心しろ。今のは悪口だ。罪名は後で決める」
「ローエンハイム卿」
「分かってる」
三通目は前の二通より長かった。
初めの頁には、土地の名があった。
婚約が成立した後、ギュンターをヴァルトハウゼン家の土地管理へ関与させる。管理に応じた報酬も認める。その約束に続けて、オットフリートは書いていた。
今度こそ、婚約を拒めない事情を作れ。
部屋から、下の酒場の音が遠ざかった。
客がいなくなったわけではない。卓を囲む者たちが、聞こえなくなっただけだった。
「これで分かっただろ」
ギュンターが言った。
「何がだ」
ヴァンフリートは紙から目を上げなかった。
「兄が用意した。侍女を外し、立会人の刻限を変え、俺へ土地を餌にした。俺は使われたんだ」
「餌だと分かって食ったのか」
「自分の財産が欲しかった」
「次男坊の悲しい性だな」
「いずれ家の領地を少しは任されると思っていた。だが、兄は俺へ何も渡さなかった」
「だから、他人の家の土地ならよかったっていうのか?」
ギュンターは旅箱の蓋へ手を置いた。
「兄が婚約を成立させれば任せると言った。それだけだ」
「使われた人間は報酬を取らない、とは申しません」
シグルーンが言った。
「ですが、報酬を約された者が、御自身を単なる被害者として語ることも認められません」
「俺が首謀者だという証拠はない」
「そのようにも申しておりません」
シグルーンは三通目を伏せた。
「まだ半分です」
ギュンターの顔が上がった。
「同じようなものだ」
「昨夜、あなたが並べた順では、この三通が続いていました」
法院書記が言った。
「残る三通は、その後ろではございませんでした」
「何が言いたい」
「あなたは、初めにこの三通を読ませようとなさった」
「分かりやすいからだ」
「ええ」
シグルーンが答えた。
「あなたが兄君に使われた、という話は分かりやすくなります」
窓の上から、細い光が旅箱の底へ落ちていた。
油布を包んでいた紐だけが、白く浮いている。
「続けます」
四通目の日付は、三通目から四日後だった。
その四日間に何があったのか、書簡には一言もなかった。
けれど、言葉の向きは変わっていた。
それまでの文章は、面会を整え、時刻を空け、事情を作れと未来へ向かっていた。四通目は、既に起きた何かを背負うように、結果は聞いた、という一文から始まっていた。
シグルーンの声が、そこで止まった。
「お読みにならないのか」
ギュンターが言った。
「読んでおります」
「声に出せ」
「急かす必要はございません」
「自分に都合のいい間を作るな」
「昨夜、書簡の順を変えた方に言われたくはございませんわ」
シグルーンは続きを読んだ。
「『先方の家は、話を外へ出すことを望んでいない。その意思が変わらぬうちに、婚約確認の書面を確保しろ』」
ギュンターの指が、旅箱から離れた。
五通目には、口頭の返事だけでは足りないとあった。
本人の署名を得ること。家の者にも婚約への異議がないと書かせること。その文面へ、過ぎた出来事を思わせる言葉は入れないこと。
最後の一通は、さらに短かった。
話を外へ出すな。
婚約確認書を得たなら、登録申請を予定どおり進めろ。
末尾の文字だけが、紙へ強く食い込んでいた。
六通目を読み終えても、シグルーンは紙を伏せなかった。
アエミリアは二通目の写しへ目を落とした。
侍女の戻る刻限を示した一文に、小さな印を置く。それから三通目の「婚約を拒めない事情」という言葉にも同じ印を置いた。
二つの印のあいだへ、細い線を引いた。
線は四通目の「結果は聞いた」という言葉の手前で止まった。
「この空白は、何ですか」
アエミリアが尋ねた。
ギュンターは答えなかった。
「先生」
「見えてる」
ヴァンフリートはそれだけ言った。
それが、どの言葉よりも部屋を狭くした。
「書簡には、具体的に何を行えと命じたのかは書かれておりません」
シグルーンが言った。
「したがって、この六通だけで、四日間に何が起きたかを断定することはできません」
「なら、何も証明してない」
ギュンターの返事は早かった。
「いいえ」
シグルーンは六通を日付順に並べた。
「侍女を遠ざけ、年長の立会人へ異なる刻限を伝えたこと。婚約を拒めない事情を作るよう、土地管理を対価として求めたこと。その後、何らかの結果を知り、相手方の沈黙が続くうちに婚約確認書を取らせ、登録申請を進めようとしたことは残ります」
「兄がしたことだ」
「オットフリート様が御自身で書かれた部分については」
「全部、兄の計画だった。俺は言われた通りに動いただけだ」
ヴァンフリートが顔を上げた。
「侍女を外したのはオットフリートだ」
ギュンターは、わずかに顎を引いた。
「その後、お前は何をした」
「言っただろ。兄の計画に従った」
「それはお前の責任を、兄貴の文章へ預けてるだけだ」
ヴァンフリートの指が、二通目に置かれたアエミリアの印へ触れた。
「人が戻る刻限を聞いたのは、お前だ」
次に、三通目の印へ移る。
「拒めない事情を作れと言われたのも、お前だ」
そして、四日間の空白で止まった。
「そのあいだに、お前は何をした」
ギュンターは六通を見た。
兄の文字が、逃げ道を作るように並んでいた。
けれど、どの書簡にも、彼自身の手はなかった。
「婚約を受けさせた」
「どうやって」
ギュンターは答えなかった。
下の酒場で杯が割れた。
一瞬遅れて店主の怒鳴り声が上がり、客が笑った。その声は階段を駆け上がり、扉の前で急に死んだ。
「ローエンハイム卿」
シグルーンが静かに呼んだ。
「本日は、そこまでです」
ヴァンフリートは何も言わなかった。
「『婚約を受けさせた』との言葉だけを記録します」
「好きにしろ」
「方法について答えなかったことも」
ギュンターはシグルーンを見た。
「書く必要があるか」
「答えたことだけを書けば、答えなかったことまで答えたように読まれます」
「本当に嫌な女だな」
「記録へ好かれる必要はございません」




