第29話
若い使いが、肩で息をしながら入ってきた。
外套の裾には乾きかけた泥が跳ね、手には小さな革袋がある。口を閉じる封蝋には、アーデルスドルフ家の紋が残っていた。
「遅くなりました」
使いは店主へ袋を差し出した。
「南門の手前で荷馬車が横倒しになりまして、道が塞がれていたもので」
店主が袋を受け取った。
「今週の分ですね」
「はい」
ギュンターは何も言わなかった。
ヴァンフリートは革袋を見てから、彼の顔を見た。
「よかったな」
声は、ひどく穏やかだった。
「兄貴の愛情が一週間延びた」
「帰れ」
「そうする。金も来た。今夜の寝床はある。空腹でもない。これで俺たちの条件に署名すれば、脅されたとは言いにくくなる」
ヴァンフリートは立ち上がった。
「家族の再会を邪魔する趣味はない。袋へ礼でも言ってろ」
「待て」
ギュンターが言った。
ヴァンフリートは椅子の背へ手を置いたまま、振り返らなかった。
「何だ」
「これが来ると知っていたのか」
「知らない」
「なら、止まるという話は嘘だった」
「今日は来た。来週も来るとは書いてないって話だ」
ヴァンフリートはギュンターへ向き直った。
「お前の兄貴は、今週もお前を飼うと決めた。それだけだ。来週の決定権も兄貴が持ってる。再来週も、その次の週も、永遠にな。袋が届いて安心したなら、首輪がまだ効いてる証拠だ」
店主の手の中で、封蝋が赤黒く光っていた。
「この金を受けるなら、今後の定期送金には頼らないと確認してもらいます」
シグルーンが言った。
「今週分は、既に生じた部屋代と食事代へ充てて構いません。残りをどうするかはあなたが決めてください。ただし、支度金の支払いが始まった後に、両方から生活費を受け続けることは認めません」
「兄の金か、お前たちの金かを選べと」
「違う」
ヴァンフリートが言った。
「兄貴に飼われるか、自分の給金で食うための借金をするかだ。俺たちはお前の新しい兄貴になる気はない」
「では、なぜ金を出す」
「まだ分からないのか」
ヴァンフリートは、店主の手にある革袋を指した。
「俺はお前を買うんじゃない。オットフリートの首輪を買い取る」
「買い取った後は、お前が持つ」
「首輪だけだ。お前まで持ち帰るほど、俺の部屋は広くない」
「俺が何も話さなくても?」
「首輪は外す」
「本当に?」
「本当だ、ただ――」
ギュンターが息を飲む。
「お前が黙って良しとするとも思えないってだけだ。首輪ってのは結構屈辱的だからな」
ヴァンフリートは椅子から手を離した。
「俺が金で消すのは、お前の罪じゃない。兄の金が怖くて黙ったという言い訳だ。首輪がなくても黙るなら、それがお前の意思になる」
ギュンターは答えなかった。
店主が持つ革袋と、卓上の書面とのあいだに、午後の薄い光が落ちていた。片方には兄の家紋があり、片方にはヴァンフリート個人の小さな印がある。
家紋の方が大きかった。
けれど、その袋が買うのは一週間だった。
「今週の部屋代と食事を引け」
ギュンターは店主へ言った。
「残りは?」
「兄へ返せ」
店主が目を見開いた。
「次からは」
ギュンターは一度言葉を切った。
「受け取らない」
店主が封を切り、今週の部屋代と食事代だけを取り分けた。手の中で小さく銀貨のこすれる音がこだました。
「筆を」
ギュンターは言った。
アエミリアが筆箱を開いた。
彼は三枚を一度に引き寄せた。もう条件を順に読み返しはしなかった。地方地主家の試用内諾へ署名し、支度金の返済と定期送金から離れることを確認する。その筆先は、資格を失う前と同じ速さで動いた。
関係書面の提出確認だけが残った。
「これには、署名しなくてもよいのだな」
「はい」
シグルーンが答えた。
「職と支度金だけを受けることもできます」
「何を話すかも約束しない」
「求めておりません」
「提出した書面が、俺に不利でも保全する」
「そのための書面です」
「兄を罪にできなくても?」
「結果は条件ではございません」
ギュンターは、ヴァンフリートを見た。
「お前は、兄を落としたいのか」
「俺の妹を踏み台から下ろしたい。落ちる奴がいれば、自分で足を滑らせた奴だ」
「家族へは冷たい男だと思っていた」
「家族だから温かくする奴は、家族なら何をしても許す。俺はそういう善人が嫌いだ」
「そうか」
ギュンターは三枚目へ署名した。
「俺は兄が嫌いだ」
筆を置くと、アエミリアが砂を振った。細かな粒が濡れた文字を覆い、紙を傾けると、黒い名だけを残して乾いた音を立てた。
シグルーンが署名を確かめる。
「原本の回収には法院書記を立ち会わせます。保管場所と経緯も、その場で記録いたします」
ギュンターは提出確認書の一行を指で叩いた。
「ここを直せ」
「どちらを?」
「『関係書面を保有する場合』」
アエミリアの筆が止まった。
窓の最後の雨粒が硝子を離れ、旧市壁の石へ光が戻った。店主の手には、返されることになった革袋がある。
ギュンターはその家紋を見ずに言った。
「書簡は六通ある」




