第28話
初めに雇用主の封印を見た。
西方に所領を持つ地主領主家だった。三か月の試用を経て、地代や森林、水路をめぐる契約を整理し、境界の争いが起これば地方法院へ出す書面を作る。国家の役人ではないが、酒場で銅貨を拾うよりは、法を使う場所に近い。
ギュンターの目は、その先へ速く進んだ。
現金を一人で扱うことはできず、彼の作った契約には領主か家令の副署が要る。帳簿は毎月別の者が照合する。資格を失った理由は、既に雇用主へ明かされていた。
「ずいぶん信用されたものだ」
「お前の実績に敬意を払った条件だ」
ヴァンフリートが言った。
「金を使い込んだ人間へ金を渡さない。珍しく人類が経験から学んだ」
「預り金の流用だ」
「墓碑には好きな方を彫れ。雇い主には両方伝えてある」
ギュンターは頁をめくった。
「三か月後の任用は保証しない」
「はい」
シグルーンが答えた。
「働きが悪ければ終わります。能力が足りても、信用を得られなければ同じです」
「刑事手続が始まれば、試用を停止できる」
「私的な信任職ですから」
「有罪でなくてもか」
「刑罰ではございません。財産と領地記録から一時的に外すだけです。疑いが解消されれば、再開を検討できます」
「検討するだけだ」
「あなたへ未来まで約束する方はいません」
ギュンターは、三枚を卓上へ広げた。
一通ずつ読み終えようとはしなかった。雇用の条件から支度金へ移り、金額を見た後で、また刑事手続の条項へ戻る。次には書面提出の頁を開き、その文言を雇用失効の条件と読み合わせた。
三つの書面を別々に置いた意味を、説明される前に見抜いていた。
「職を用意するのは地方の家。金を出すのはお前。書面を受け取るのはアイスベルク」
ギュンターは言った。
「一枚にすれば買収に見えるから、三枚にした」
「見えるからではございません」
シグルーンが答えた。
「実際に切り離します。雇用主があなたを採るかどうかは、あなたの仕事によって決まります。支度金はローエンハイム卿個人から出ますが、何を話すかでは増減しません。関係書面を提出するかどうかも、あなたが別に決めます」
「きれいだな」
「いいえ。危ういから線を引いたのです」
ギュンターは支度金の頁を引き寄せた。
今の暮らしを一年近く保てる額に加え、雇用主へ置く身元保証金が記されている。衣服と旅費、赴任先での住居は、シグルーンが支払先へ直接納める。残りも一度には渡されない。
「俺の金なのに、俺が持てないのか」
「あなたの金ではございません」
「俺のための金だ」
「だから用途を守ります」
「ふっ、子供扱いだな」
「子供の方が、まだ帳簿はきれいでしょう」
ギュンターはシグルーンを見た。
「相変わらず嫌な女だ」
「ローエンハイム卿と御一緒ですので」
「俺を責任の単位に使うな」
ヴァンフリートが言った。
「人間の欠点は一人ずつ数えろ。俺と比べると、誰でも善人に見える」
「贈与ではなく、立替金か」
ギュンターは尋ねた。
「給金が安定してから、生活を損なわない額で返済していただきます」
「リーゼロッテ様の条件です」
アエミリアが言った。
「兄の金を、あなたの沈黙へ払う代金にはしたくないと仰いました」
「俺が何も話さなくても、返す?」
「同じです」
「ローエンハイムに有利なことを話しても?」
「同じです」
「不利なことなら?」
「同じです」
「何も出さなくても?」
「職と支度金は撤回しません」
ギュンターは顔を上げた。
「では、三枚目に署名する理由がない」
「ございません」
シグルーンの返事は早かった。
「雇用と支度だけを受け、関係書面の提出を断ることもできます。提出しないことを理由に、先の二つは変えません」
「ずいぶん俺に都合がいい」
「お前が無罪になるとは、どこにも書いてない」
ヴァンフリートが言った。
「職は三か月。金は借金。支払いはシグルーンが握る。過去から何かしらの不祥事が出れば、椅子は消える。これで都合がいいと思えるなら、酒はまだ脳まで届いてない。元の人生が悪すぎるだけだ」
ギュンターは三枚目を読んだ。
十二年前の婚約登録と取下げ、その前後の交渉に関する書面を提出するなら、関係するものを選別せず、原本のまま開示する。保管していた場所と、その間に誰が触れたかも記録する。
「写しでは駄目か」
「原本を確認します」
シグルーンが言った。
「あなたなら、理由は御存じでしょう」
「封蝋、紙、筆跡。開封の時期。抜かれた頁がないか」
「ええ」
「俺に不利なものでも?」
「同じように保全します」
「兄に有利でも?」
「同じです」
「俺が、都合の悪い一通を隠せば?」
「提出された書面の連続性から疑いが生じれば、その点も記録します。すべて出したとの確認へ署名した後で隠匿が分かれば、重大な虚偽として扱います」
「それで職も失う」
「書面どおりです」
「免責は?」
「ございません」
「処分を軽くする約束は?」
「いたしません」
ギュンターは乾いた笑いを漏らした。
「金を借りて、三か月の仕事をもらい、自分の首を絞める証拠を渡せというのか」
「渡せとは言ってない」
ヴァンフリートが答えた。
「お前は職と金だけ取って、黙ったまま出ていってもいい」
「それで、お前に何の得がある」
「ない」
「信じろと?」
「信じなくていい。条件書を読め。お前は人間を見誤って資格を失った。今度は紙だけ見て決めろ」
ギュンターはヴァンフリートの署名を見た。
ローエンハイム家の家産ではなく、彼個人の私財から出すことが明記されている。父の金も、兄の金も、リーゼロッテの持参財産も入っていなかった。
「なぜ、そこまで出す」
「お前を助けたいから、に見えるか?」
「見えない」
「なら、お前の目はまだ使えるな」
ギュンターは三枚を睨むように見た。
「何を話しても、職は変わらないのか」
「供述の内容では変わりません」
シグルーンが答えた。
「ただし、何かしらの不祥事、たとえば刑事事件などが始まった場合、重大な虚偽が判明した場合、または新しい職務で不正を行った場合は、書面どおり停止または失効します」
「昔の相手が申立てをすれば、職は止まる」
「その可能性も含まれます」
「誰も申立てないとは約束しない?」
「いたしません」
「十二年だぞ」
ギュンターの声が低くなった。
「十二年も黙っていた人間が、今さら法院へ行くと思うのか」
「私がどう思うかは、あなたの安全を保証しません」
「手厳しいな、少しは機嫌を取ったらどうだ」
なにも語らぬシグルーンに対して、ギュンターは肩をすくめ、両手をわずかに広げてみせた。
酒場の騒がしさが場を支配し始めた辺りから、ギュンターは片足をつぶさに揺らしはじめた。
「……会ったのか」
「お答えいたしません」
「会ってないんだな」
「そう考えて署名なさるなら、それもあなたの判断です」
シグルーンの声には、誘う響きも止める響きもなかった。
「今更、来るわけがない」
ギュンターは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
関係書面の範囲を示す一文を、もう一度読む。受け取ったものだけでなく、自ら作成し、相手へ渡した書面についても、原本を保有しているなら対象となる。
その行を越えた指が、わずかに戻った。
「供述調書は?」
ギュンターが尋ねた。
「本日は作りません」
アエミリアが答えた。
「先に書面の原本を保全します。内容を確認してから、別の日にお話を伺います」
「俺の話へ合わせて紙を読む気はない、と」
「紙へ合わせて、あなたの話を確かめます」
「ふっ、弟子によく教えているようだな」
「俺なら先に嘘を聞く」
ヴァンフリートが言った。
「後で事実を見せた時、人間は自分の嘘に一番よく驚く」
ギュンターの手が止まった。
同時に、戸口の鎖が鳴った。




