第27話
いつも革袋が届く刻限を過ぎても、黒鹿亭の戸は開かなかった。
窓に残った雨粒は、昼の光を一つずつ呑みながら乾いていった。
旧市壁の黒い石が、濡れた硝子の向こうから次第に輪郭を取り戻し、軒下を渡る風に、酒場の看板がかすかに鎖を鳴らす。
そのたび、ギュンターの指は法令集の同じ行で止まった。
向かいには、市場で布を売る女が座っていた。
「場所代は、月の初めに払いました」
「受取証は」
「これです」
女が差し出した紙を、ギュンターは麦酒の隣へ置いた。
「では、なぜもう一度払う」
「祭りの後は掃除代が要ると言われて。払わなければ、来月から場所を貸さないと」
「祭りは誰が開いた」
「市場組合です」
「お前が頼んだのか」
「まさか」
「なら組合に払わせろ。市場を汚して儲けた奴が、掃除だけ貧乏人へ譲るのは礼儀じゃない。泥棒だ」
「でも、ここへ署名を」
別の紙には、掃除代を場所代の未納分として認める一文があった。
ギュンターは鼻で笑った。
「掃除代が家賃へ化けた。紙の上では豚も貴族になれるらしい」
「どうすれば?」
「署名するな。明日、同じ場所を使え。追い出すなら、市場書記の前で理由を言わせろ。未納だと言われたら、この受取証を見せる。紙を二枚用意したのが向こうの間違いだ。嘘は一枚にまとめないと、読み比べられる」
「勝てますか」
「俺は占い師じゃない。先のことまで当てられたら、こんな酒場でお前の紙を読んでない」
女は銅貨を一枚置いた。
ギュンターはそれを店主の方へ滑らせた。
「麦酒を」
「今お飲みのものが残っています」
「相談が一件終わった。次の俺は別の客だ」
「同じ腹でしょう」
「法律上の人格を学べ。酒場の主人には難しいか」
店主は銅貨を取りながら、戸口へ目をやった。
「今週の分、遅いですね」
ギュンターは杯を持った。
「道が悪いんだろ」
「雨は昨夜には上がりましたよ」
「なら、使いが悪い」
「部屋代は明日まで待てますが」
「待てとは言ってない」
「では、今夜お支払いを?」
卓の端には、酒の相談で得た銅貨が六枚ほど並んでいた。
ギュンターは答えなかった。
女が礼を言って去った後も、折り畳まれた法令集の上へ片手を置いたまま、通りを見なかった。だが、黒鹿の看板が鎖を鳴らすたび、その親指だけが古い紙の上をわずかに動いた。
やがて戸が開いた。
入ってきたのは、アーデルスドルフ家の使いではなかった。
「残念だったな」
ヴァンフリートが言った。
「俺たちだ」
その後ろからアエミリアとシグルーンが入ってきた。シグルーンは革の書類入れを抱え、アエミリアは細長い筆箱を持っている。
「帰れ」
ギュンターは言った。
「挨拶が早い。兄貴の金を待ってる人間は、客を選ぶ余裕があるらしい」
「遅れてるだけだ」
「そうだな。今日かもしれない。明日かもしれない。一生来ないかもしれない。待つ側だけが日付を知らない。立派な家族愛だ」
「お前が止めたのか」
ギュンターの声が変わった。
「俺がお前の兄貴の財布に手を入れられるなら、先に妹の持参財産を抜き取ってる。あっちの方が額が大きい」
「私たちは、オットフリート様へ送金の停止を求めておりません」
シグルーンが言った。
「使いへ接触もしておりません。遅れている理由も存じません」
「では、何をしに来た」
「お前が来週を兄貴の機嫌へ預けずに済む話だ」
ヴァンフリートはギュンターの向かいへ腰を下ろした。
「お前の沈黙は、今までは毎週金になった。だが妹が婚約条件へ署名すれば、十二年前を調べない女が一人できる。オットフリートは、黙ってる弟と黙る花嫁の両方へ金を払うほど浪費家じゃない」
「推測だ」
「そうだ。だからお前は戸を見てないふりをしてる」
ギュンターは杯を置いた。
「兄は俺を見捨てない」
「それは先週も聞いた。信仰は同じ祈りを繰り返すと深くなるらしいな」
「先生」
アエミリアが静かに呼んだ。
「分かってる。事実だけ言う」
ヴァンフリートは卓上の銅貨を指した。
「お前の法律知識は、今日も銅貨一枚を稼いだ。酒は飲める。部屋代と食事は払えない。足りない分を出してるのはオットフリートだ。その兄貴は今、お前の甥へ職と土地を買い、妹へ過去を閉じる署名をさせようとしてる。お前だけが取り分から外れた。ここまでが事実だ」
「金はまだ止まってない」
「だから厄介なんだ。首輪は餌が来るから首輪になる。来なければ、ただの縄だ」
シグルーンが書類入れを開いた。
「御覧いただきたいものがございます」
「また条件書か」
「今度は、あなた御自身が署名するものです」
彼女は、別々の封印を持つ三枚の書面を一つの束にして置いた。
ギュンターは手を伸ばさなかった。
「それが、兄の金の代わりか」
「代わりになるかどうかは、お前が決める」
ヴァンフリートが答えた。
「読まないなら帰る。俺の金は腐らない。お前より長持ちする」
ギュンターは書面を取った。




