↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
71/195

第24話

 地方からの返事は、六日目の朝、雨の匂いを封じたまま届いた。


 夜通し駅馬車に揺られた封筒は、角がやわらかく潰れ、濃緑の封蝋には細い亀裂が入っていた。シグルーンが小刀を差し込むと、乾いた音がして、遠い土地の雨がようやく王都へ着いたように思われた。


 窓辺ではアエミリアが、朝の光に紙を透かしている。


 ヴァンフリートは長椅子へ半ば寝そべり、呼び出された不満を隠そうともせず、泥のついた靴先で絨毯の模様を追っていた。


「何と?」


 アエミリアが尋ねた。


「面談には応じるそうです」


 シグルーンは一枚目を読み終え、次の紙を開いた。


「双方に異存がなければ、三か月の試用任用を認める、と」


「六日待たせて三か月か。長生きする家だな」


 ヴァンフリートは欠伸を噛み殺した。


「慎重なのです」


「臆病者が自分を呼ぶ時に使う言葉だ」


「横領して資格を失った方を雇うのです。用心深くならない方が不自然でしょう」


「本人より紹介する側を疑った方がいい。特にお前は顔が善良すぎる」


「あなたよりは、信用を得やすい顔をしていることは自覚していますわ」


「信用は馬鹿を扉の中へ入れるための鍵だ。俺には必要ない」


 シグルーンは二人の言葉を放っておき、同封された書面へ目を落とした。


 差出人は、西方に所領を持つ旧知の地主領主だった。大領主と呼ぶには土地が狭く、書記一人へ任せるには、古い契約が絡みすぎている。二つの村にまたがる森では伐採権が争われ、雪解けの水を引く溝についても、毎年同じ家々が違う昔話を持ち出すという。


 資格のある法家を置くほど豊かではない。


 しかし、素人の家令だけで扱えば、境界の杭一本が訴状へ育つ。


「役目は領地執行官です」


 シグルーンが言った。


「法院の執行官ではございません。地代や森林、水利の契約を確かめ、境界の争いを整理し、必要があれば地方法院へ書面を出します」


「権力はないのに、恨まれる理由だけは揃ってる。ギュンター向きだな」


「褒めておられますか」


 アエミリアが尋ねた。


「俺が褒めているように聞こえたなら、お前は昨夜よく眠れてない」


 シグルーンは三枚目を読んだ。


 文章は丁寧だったが、疑念まで丁寧に包んではいなかった。


「現金を預けることはできないと、明記されています」


「当然だ」


「地代の記録を見ることは許しますが、受取りと支払いは家令が行います。ギュンター様が契約案を作成した場合も、領主か家令の副署がなければ効力を持たせない、と」


「人の金と自分の金を見分けられない男へ、線を引く役を別に置くわけか。幼児には柵、元法家には副署。文明は親切だな」


「月ごとに帳簿との照合も受けます」


「それは仕事の監査か、飲酒量の観察か?」


「前者です」


「惜しい。後者なら初日で試用が終わる」


 アエミリアは、シグルーンの手元から書面を受け取った。


 紙の下方にある一節で、その目が止まる。


「刑事手続が始まった場合には、試用任用を停止できる、とございます」


「その条件は必要ですわ」


 シグルーンが答えた。


「領主の名で書面を扱う者です。無罪と決まっていない段階で罰することはできませんが、財産に関わる職務を続けさせる義務もございません」


「十二年前の件について手続が始まれば、仕事を失うかもしれないのですね」


「停止です。直ちに解任するとは書かせませんでした」


「ずいぶん優しいな」


 ヴァンフリートが言った。


「先生なら、どう書かれますか?」


 アエミリアは質問した。


「『悪いことをするな。したなら、せめて帳簿へ書くな』で済む」


「それでは契約になりません」


「人間は長く書けば自分が正直になった気でいる。契約書が厚いのは、紙に良心を代わってもらうためだ」


 アエミリアはさらに先を読んだ。


 資格を失った事情について虚偽を告げた場合、あるいは任用後に新たな不正があった場合は、試用を打ち切る。そこには過去を赦すとも、将来を保証するとも書かれていなかった。


「身元保証も求められています」


 彼女は言った。


「紹介だけでは足りないそうです」


 シグルーンが、最後の紙をヴァンフリートの前へ置いた。


「最初の一年、職務上の損害に備えて保証人を置くこと。加えて、一定額を雇い主へ預託することが条件です」


「金まで人質に取るのか」


「信用をお持ちでない方を送り込むのですから」


「信用がないから金を置く。金がないから信用を失う。世間という奴は、同じ階段を上からも下からも転がすのが好きだな」


「お支払いになれませんか」


 シグルーンは尋ねた。


「誰に聞いてる」


「仕事を用意すると仰った方に」


「雇い主を見つけたのはお前だ」


「では、お断りしてよろしいのですね」


 ヴァンフリートは長椅子から身を起こした。


「朝から性格が悪いな」


「あなたを相手にする日は、早起きすることにしておりますわ」


 ヴァンフリートは保証額の記された行を見た。


 冗談は言わなかった。


 窓の外では、夜の雨を吸った屋根が淡く光っている。軒から落ち残った雫が、朝の風に耐えきれず、一つずつ中庭へ落ちていた。


「用意するさ」


 ヴァンフリートは言った。


「先生」


 アエミリアが顔を上げた。


「痛い出費だ。支度金だけじゃなくて、保証金まで払うハメになった」


「屋根が付く日がさらに遠のきます」


「屋根は返事をしない。あの男より扱いやすい」


「雨は防いでくれます」


「十年防がなかった屋根だ。ならもう少しなくても同じことだ」


 シグルーンは封筒の中を改めた。


「保証金が届けば、先方は面談の日を定めます。試用の内諾書にも既に封印がございます」


 淡い紙の末尾に、地方地主家の封蝋が押されていた。


 まだギュンターの名は書き入れられていない。


 空いた一行が、白いまま彼を待っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。