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第23話

 その夜、シグルーンはリーゼロッテへ報告した。


 ローエンハイム邸の応接の間から、祝いの白い花は片づけられていた。卓上には、花瓶の置かれていたところだけが周囲より白く残っている。


 窓辺の燭台で、火が小さく揺れていた。


「ギュンター様は、取下げより前に登録が止められていたことを御存じでした」


 シグルーンが言った。


「理由は、お話しになったのですか」


「いいえ。ですが、旧婚約が成立した後に、土地の管理を任される話があったことは否定なさいませんでした」


「誰からのお話かは?」


「答えませんでした」


 リーゼロッテは膝の上へ視線を落とした。


「わたくしの婚約条件も、御覧になったのですね」


「御許可をいただいた範囲だけ、お見せしました。ルートヴィヒ様は職と財産を得る。オットフリート様はローエンハイム家との縁を得て、十二年前の件を閉じられる。そのように理解なさいました」


「ギュンター様御自身には?」


「何もない、と」


「では、利用された方なのですか」


「利用されていることと、十二年前に御自身が何をしたかは別です。兄へ生活を支えられていることは、沈黙の理由にはなります。責任を消す理由にはなりません」


 リーゼロッテは頷いた。


「証拠は、何も残っていないのでしょうか」


「『私たちに使える証拠はない』と仰いました」


 リーゼロッテは顔を上げた。


「証拠がない、とは仰らなかったのですね」


「ええ」


 燭台の火が、窓硝子へ映った。外にもう一つの火が灯っているように見えたが、風が入るたび、二つは同時に揺れた。


「調べてください」


 リーゼロッテは言った。


「ギュンター様が、何を隠しているのか。それを話せば、何を失うのかも」


「そのために、オットフリート様から生活を切り離す方法を考えています」


「どのように?」


「地方の小領主へ、法務の補助者として紹介します。帳簿や現金には触れさせず、契約や地代、境界に関する書面だけを扱わせます。紹介先は、私が探します」


「引き受けてくださる家があるでしょうか」


「資格を失った事情を隠さず、期限を区切ることになります。容易ではございませんが、心当たりはございます」


「では、お願いします」


「もう一つ、御許可をいただくことがございます」


 シグルーンは、わずかに間を置いた。


「衣服と旅費、最初の給金までの宿代が必要です。その支度金は、お兄様が私費で出すと仰っています」


 リーゼロッテの指が止まった。


「兄様が?」


「はい」


「どちらから、そのようなお金を」


「法院通りの机へ、屋根をつけるために貯めておられたそうです」


 リーゼロッテは何も言わなかった。


 窓の外で、軒から落ちた雫が石へ当たった。音は一度きりだったが、その後もしばらく、部屋のどこかに残っているようだった。


「止めてください」


 やがて彼女は言った。


「兄様のお金を使うことは、認めません」


「理由を伺っても?」


「わたくしの婚約を調べるために、兄様の机から屋根まで取り上げることはできません」


「先生は、机なら今まで十年濡れても死ななかったと仰いました」


 リーゼロッテは顔を上げた。


「机の話をしているのではありません」


 シグルーンは答えなかった。


「兄様は、御自分が濡れれば済むと思っておられます」


 リーゼロッテの声は静かだった。


「屋敷を出た時も、そうだったのでしょう。御自分だけが離れればよい。御自分だけが困ればよいと。けれど、何も聞かされなかった者は、兄様がどこで濡れているのかさえ知りませんでした」


 膝の上で重なっていた指が、ゆっくり離れた。


「支度金は、わたくしが出します」


「それは認められません」


「なぜです」


「あなたは、この件の当事者です。あなたからギュンター様へ金が渡れば、御自分に有利な言葉を得るためだと疑われます」


「兄様なら、疑われないのですか」


「疑いは残ります。ですから私が預かり、仕立屋や宿、駅馬車へ直接支払います。ギュンター様が何を話しても、何も話さなくても、紹介と支度の条件は変えません。そのことも、先に書面へ残します」


「それでも、兄様のお金は減ります」


「はい」


 シグルーンは慰めなかった。


 リーゼロッテは窓へ目を向けた。


 硝子の向こうには、夜の庭が沈んでいた。雨に濡れた枝だけが燭台の光を細く返し、風が吹くたび、暗がりの中で身を伏せた。


「支度金は、贈るのではなく、立て替える形にしてください」


 リーゼロッテは言った。


「仕事が続き、給金を得られるようになってから、暮らしを損なわない額で兄様へ返すように」


「証言とは無関係の債務として?」


「はい。何を話しても、何も話さなくても、同じように返していただきます」


「先生は、嫌がるでしょうね」


「兄様の許可を得る必要はございますか」


 シグルーンの口元が、ごくわずかに動いた。


「支払う方の同意は必要ですわ」


「でしたら、わたくしが頼んだとは仰らないでください」


「嘘は申しません」


「では、わたくしが条件をつけたとお伝えください。兄様が御自分で決めたように、わたくしも自分で決めたのだと」


 シグルーンは頷いた。


「仕事の紹介は、ギュンター様の証言と切り離すこと。資格を失った理由は雇い主へ隠さないこと。金銭を扱わせないこと。支度金は必要な先へ直接払い、給金が安定してから返済させること」


「お願いします」


「この条件で、進めてもよろしいのですね」


 リーゼロッテはしばらく、燭台の火を見ていた。


「はい」


 答えた声には、迷いが残っていた。


 それでも、誰かに決められた返事ではなかった。


「兄様の屋根を、ギュンター様の沈黙の代金にはしないでください」


「いたしません」


「外へ出るためのお金にしてください」


 シグルーンは、その言葉を書き留めた。


 十二年前の名は、まだ白い紙の下にあった。


 けれど、今までその名を覆っていた金と、これから一人の男を酒場の外へ送り出す金とは、同じ沈黙のために支払われるものではなかった。


 その違いが失われないように、リーゼロッテは自分の名で条件を置いた。

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