第22話
黒鹿亭を出ると、雨は上がっていた。
旧市壁に沿う道には浅い水が残り、酒場の灯が赤く揺れながら映っている。雲の切れ間には、夜になりきれない青が細く残っていた。
背後で戸が閉じた。
黒い鹿の看板が、濡れた風の中で鎖を軋ませた。
「証言の対価と受け取られる条件は認めません」
シグルーンが言った。
「対価じゃない。あいつが黙る理由を一つ減らすだけだ」
「呼び方を変えても、疑いは残ります」
「なら、あいつが何も話さなくても同じ仕事を残せ。それで文句ないだろ」
「嘘をついた場合は?」
「嘘の罰は別に考えろ。食う場所を奪って本当のことを言わせるのも、食う場所を与えて言わせるのも、やってることは大して変わらない」
「珍しく、御自分の危うさを御存じなのですね」
「俺はいつも知ってる。知らない顔をしてるだけだ。脳ある鷹は頭頂部を隠す」
アエミリアは、酒場の曇った窓を振り返った。
「ギュンターには、法的な知識が残っています。先ほどの人夫へした助言も、筋は通っていました」
「資格を失ったのは、頭が空になったからじゃない。人の金と自分の金の区別がつかなかったからだ。致命的だがな」
「でしたら、金銭を扱わせない仕事でなければなりません」
「契約を読み、小作人との争いを整理し、境界の書面を確かめる。金は別の人間に持たせればいい」
「領地の法務を補助する仕事ですか」
シグルーンが尋ねた。
「大げさな役職は要らない。法家を一人置くほど豊かじゃないが、素人だけで書面を扱うには土地が広すぎる。そういう地主貴族なら使い道はある」
「思い当たる家がございますの?」
ヴァンフリートは黙った。
道端の水を避けて一歩進み、それから、いかにも不愉快そうに答えた。
「ない」
「そこまで堂々と仰ることではございません」
「俺の知り合いは、雇う側より訴えられる側の方が多い。土地を持っていても、境界じゃなく借金を争ってる」
「では、先ほどの御約束は?」
「仕事を用意するとは言った。俺が雇い主を知ってるとは言ってない」
シグルーンは深いため息をついた。
「言葉で仕事をなさる方は、逃げ道を作るのもお上手ですね」
「褒めるな。育ちが悪くなるぞ」
シグルーンは濡れた石畳の先へ目を向けた。
旧市壁を抜ける荷馬車の灯が、遠くでゆっくり動いている。車輪の音は夜気に薄まり、姿より先に消えていった。
「地方の領主であれば、いくつか当たれます」
シグルーンは言った。
「大きな家は無理でしょう。資格を失った理由が知られれば、名誉のために断ります。ですが、小領主の中には、契約や地代の争いを処理できる者を雇う余裕はなく、それでも書記だけでは足りない家がございます」
「お前に、そんな庶民的な知り合いがいたのか」
「小領主は庶民ではございません」
「金がなければ貴族も庶民も似たようなものだ。違うのは、借金へ家紋を押せるかどうかだ」
「資格を失った事情は、初めから伝えます」
「そうしろ」
「帳簿と現金には触れさせないこと。契約案を作っても、最終的な署名と金銭の処理は別の者が行うこと。まずは期限を区切って働かせること。それを受け入れる家を探します」
「見つかりそうですか」
アエミリアが尋ねた。
「少なくとも、ローエンハイム卿よりは探せますわ」
「俺と比べて安心するな。床より背が高いと威張ってるようなものだ」
「問題は、仕事が見つかった後です」
シグルーンは続けた。
「今の姿のまま、紹介先へ出すわけにはまいりません。衣服を整え、最初の給金が出るまでの宿を取り、王都を離れるなら旅費も必要になります」
「支度金か」
「ええ。雇う側へ前払いを求めれば、預り金を流用した者へ、さらに金を先に渡すことになります。受け入れる家はないでしょう」
「オットフリート様へ求めることはできませんね」
アエミリアが言った。
「アイツが敵に塩を送る男に見えるのか? 第一、兄の金から離すための仕事に、その兄の金で出ていけば、本末転倒の見本だ」
ヴァンフリートは外套の内側へ手を入れた。
財布を取り出したわけではなかった。そこにある金額を、布越しに確かめただけらしい。
「俺が出す」
アエミリアが彼を見た。
「先生が?」
「何だ、その顔は。俺だって金貨の形くらいは覚えてる」
「どちらから御用意なさるのです」
「法院通りの机に屋根をつける金が少しある」
「雨の日は、どうなさるのですか」
「今まで通り濡れる。机は十年濡れても死ななかった。あいつは来週の革袋一つで死にそうな顔をしてる。順番の問題だ」
「衣服と旅費だけではございません。少なくとも最初の給金が出るまで、宿と食事を保たせる必要があります」
「未収金がいくつかある」
「……よろしいのですか」
「向こうの都合で待ってやったんだ。俺の都合で早めることの何が悪い」
シグルーンはヴァンフリートを見た。
冗談を探している目ではなかった。
「支度金は、私が預かります」
「俺が払うと言ってる」
「払った後の話です。ギュンター様へ一括で渡せば、何へ使われるか分かりません。仕立屋、宿、駅馬車へ、必要な分だけ私から直接支払います」
「お前は本当に人を信用しないな」
「預り金の流用で資格を失った方を信用して金を預けるほど、寛大ではございません」
「それでいい」
「そして、この条件は、ギュンター様が何を話すかとは切り離します。何も話さなくても、仕事の紹介と支度金は撤回しません」
「分かってる」
「リーゼロッテ様の許可もいただきます」
「妹の代言人はお前だ。好きにしろ」
「好きにするのではありません。依頼人の指示を受けます」
「面倒な女だな」
「その面倒な女へ、知己のないあなたが頼んでおられるのです」
ヴァンフリートは少し黙った。
「頼んだ覚えはない」
「では、探さなくてよろしいのですね」
「お前、性格が悪くなったな」
「どなたの影響でしょう」
「俺なら、もっと上手くやる」
アエミリアの口元が、わずかに緩んだ。
「では、シグルーン様が紹介先を探し、先生が支度金を御用意なさるのですね」
「お前は条件を書け」
「わたしもですか」
「仕事と証言が無関係だと、あいつにも雇い主にも分かるようにしろ。金へ触れないことも、資格を失った理由を隠さないこともな」
「先生がお決めになるのですか」
「案を出してるだけだ。決めるのは妹とシグルーンだろ」
シグルーンはすぐには答えなかった。
石壁の上から雫が落ち、道端の水へ丸い波を作った。輪は二つ三つと広がり、酒場の赤い灯を細かく揺らした。
「その順序でしたら、引き受けます」
やがて彼女は言った。
「最初からそう言え」
「最初から御自分に知己がないと仰れば、もう少し早く進みましたわ」
「欠点は小出しにするものだ。一度に見せると、人が寄りつかなくなる」
三人は水の残る道を歩いた。
黒鹿亭の窓は、少しずつ遠ざかった。
曇った硝子の向こうに、ギュンターの影がまだ残っている。
卓上の銅貨は、今夜の酒を買う。
店主の前掛けにある革袋は、明日の寝床を買う。
けれど、どちらの金も、ギュンターを黒鹿亭の外へは運ばない。
まだ支払われていない支度金だけが、初めて酒場の戸より先にある道を向いていた。




