第21話
ギュンターの右手が止まった。
「人違いだ」
「顔は忘れてた。今、お前が思い出させた」
「記憶は証拠にならない」
「知ってる。だから意味を聞いてる。兄と話はついてたと言った。あれはオットフリートか?」
「その言葉を俺が言ったとは認めない」
「さすが元法家だ。否定する場所だけは間違えない」
「先生」
シグルーンが呼んだ。
「記憶だけで追及なさらないでください」
「追及してない。こいつの顔を見てる」
「顔も証拠ではございません」
「人間より紙が好きな女だな」
「紙は途中で質問を変えませんもの」
ヴァンフリートは椅子へ背を預けた。
「なら、お前が続けろ」
シグルーンは婚約条件書の写しを取り出した。
「現在、リーゼロッテ様が署名なさった条件です。御本人の許可を得た範囲だけ、お見せします」
「俺には関係ない」
「読んでからお決めください」
ギュンターはしばらく書面を見ていた。
やがて懐から布を出し、指先を拭った。卓も外套も汚れているのに、人の書面だけは汚さない。その慎重さは善良さというより、失った資格が指先に残した古い癖だった。
最初の頁へ戻り、持参財産の条件を読む。
将来相続する土地からの収益。王都屋敷の持分。婚姻後も続く支払い。
次の頁には、ルートヴィヒへの任官支援があった。
最後には、十二年前の争いを調べず、公にせず、現在の婚姻によって両家の問題を終えたものとする条項が置かれている。
ギュンターの目は、酒に疲れていても文字の上では速かった。
「よくできてる」
読み終えると、彼は言った。
「褒めるのか」
ヴァンフリートが尋ねた。
「依頼人の金を使い込んだ男に褒められる条件書だ。妹へ伝えてやれ」
「条件が善良だと言ってるんじゃない。欲しいものが全部一つへ入ってる」
「誰が欲しがってる」
「甥は職を得る。兄はローエンハイムとの縁と土地の収益を得る。古い話も閉じる」
「お前は?」
ギュンターは条件書へ目を落とした。
「俺は関係ない」
「便利だな。お前の過去を売った代金なのに、売った本人には酒の一杯も出ない」
「俺の過去だと誰が決めた」
「違うなら、そう言え」
「証明しろ」
「質問へ証明を求めるな。答えられない馬鹿に見えるぞ」
「答えない人間だ」
ギュンターは持参財産の頁へ目を戻した。
土地から上がる収益を記した行で、その指が止まった。
「また土地か」
小さな声だった。
酒場のざわめきに紛れるほどの。
けれど、向かいにいる三人には聞こえた。
「また?」
ヴァンフリートが聞き返した。
「何でもない」
「十二年前も、土地で話がついてた?」
「勝手に意味を足すな」
「足したのはお前だ。『また』とな」
シグルーンが静かに尋ねた。
「旧婚約が成立した後、あなたが土地の管理を任される予定だったのですか」
「証拠はない」
「誰からの約束です?」
「その質問へ答える証拠もない」
答えは、事実から証明へ逃げた。
シグルーンは追わなかった。
逃げた先だけを見届けてから、もう一つ尋ねた。
「十二年前の件について、何か残しておられますか」
「お前たちに使える証拠はない」
アエミリアが顔を上げた。
「使える証拠は、ですか」
ギュンターの指が、卓上の銅貨へ触れた。
「同じことだ」
「いいえ」
シグルーンが言った。
声は静かだったが、その一言だけで足りた。
何もないことと、使わせないことは違う。
ギュンターほどの男が、その違いを知らないはずはなかった。
彼は銅貨を一枚ずつ重ね始めた。六枚の小さな塔ができると、指先で崩し、また同じ順に並べた。
「帰れ」
「俺からも一つだけだ」
ヴァンフリートは、店主の前掛けへ目を向けた。
「甥の婚姻が成立した後も、その金が届くと思うか?」
ギュンターの指が止まった。
「兄は俺を見捨てない」
「妹が婚姻すれば、十二年前のことは調べないと署名される。土地も金も推薦も、オットフリートの手に入る。お前の沈黙を毎週買う理由はなくなる」
「兄がそう言ったのか」
「言われないと分からないのか?」
「お前の推測だ」
「そうだ。外れてるなら笑え」
ギュンターは笑わなかった。
店主が別の客へ煮込みを運び、卓のそばを通り過ぎた。
前掛けの下で、革袋が小さく鳴った。
「今までは、お前が黙ることで金が届いた」
ヴァンフリートが言った。
「これからは、妹が黙ると紙に書けば済む。酔っ払い一人を飼うより、花嫁一人へ署名させる方が安い。地代収入のおまけまでついてくる」
ギュンターは杯を持ち上げた。
残っていた麦酒を飲み干す。
空の杯を置いた音は、ひどく軽かった。
「帰れ」
今度の声には、先ほどまでの薄い笑いがなかった。
シグルーンは条件書を閉じた。
「本日は、ここまでにします」
「何も分からなかっただろ」
「そう思っておられるなら、そのままで結構です」
彼女は写しを自分の書類入れへ戻した。
アエミリアも帳面を閉じる。
ヴァンフリートだけは、まだ椅子に座っていた。
「先生」
「分かってる」
そう答えながら、彼はギュンターを見た。
「来週、その金が届かなかったら法院通りへ来い」
ヴァンフリートは椅子から立ち上がった。
「杯を空にして待ってろ。お前の得意な仕事を用意してやる」




