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第20話

 黒鹿亭は、日が落ちる前から夜の匂いがした。


 王都南区の旧市壁に寄り添うように建った、梁の低い酒場だった。長年の雨で黒ずんだ壁へ、角の欠けた鹿の看板が吊られている。風が吹くたび、黒い鹿は鎖の先でゆっくり身を揺らした。逃げようとしているのか、首を吊られているのか、見上げる場所によって違って見えた。


 戸を開けると、濡れた外套から立つ湯気へ、煮込みの脂と酸っぱい麦酒の匂いがまとわりついてきた。窓は外の寒さに曇り、暖炉の火は赤かったが、石床の冷えまでは追い払えていない。


 客の多くは、まだ働く時間を残した者か、もう働く場所を失った者だった。


 荷運び人夫が卓へ片肘をつき、夜番明けの門衛が麦酒の泡を指で払っている。隅では二人の男が賽を振っていた。骨で作られた小さな骰子が転がるたび、笑い声の下へ乾いた音が走った。


 シグルーンが入ると、いくつかの顔が彼女へ向いた。


 淡い青銀の髪も、隙なく仕立てられた衣装も、この酒場の煤にはよく目立った。彼女は視線を受けても足を緩めず、床にこぼれた酒と泥のあいだを、氷の上でも歩くように進んだ。


「お前、その格好で来る必要があったか」


 ヴァンフリートが後ろから言った。


「仕事に参りましたので」


「差押えに来たと思われてるぞ」


「あなたと御一緒なら、取り立てる側に見えるだけましですわ」


「俺は何に見える」


「取り立てられる側です」


「残念だな。金のない人間から取れるのは時間だけだ」


「依頼人の時間は、既に十分お取りになっています」


 アエミリアは二人のあいだへ入らず、酒場の奥を見た。


 暖炉から離れた壁際に、小さな卓があった。


 そこに座る男の前には、麦酒の杯と、革表紙を失った法令集が開かれていた。


 ギュンター・フォン・アーデルスドルフは、四十を半ば越えていた。


 頬は削げ、顎には剃り残した灰色の髭がある。かつては上等だったらしい外套も、今では袖口に古い脂が染み、襟の片方が潰れていた。それでも卓上の法令集だけは、頁の角こそ擦り切れているものの、行ごとの書き込みが整い、必要な箇所には細い紙片が挟まれていた。


 向かいには、荷馬車を扱う若い男が座っていた。


 帽子を膝へ置き、骨張った指を何度も組み直している。


「それで、親方は、折れた車輪の代金を俺の賃金から全部引くと言うんです」


「お前が折ったのか」


 ギュンターは法令集を見ずに尋ねた。


「荷を積みすぎたんです。俺は重いと止めました」


「聞いてた奴は」


「二人います」


「親方へ、車輪を弁償すると書いたか」


「書いてません」


「なら明日の朝、その二人を連れて組合の書記へ行け。賃金の受取りだけなら署名しろ。車輪代を認める文句が一緒に書いてあったら、その場で帰れ」


「払わないと言われたら?」


「言わせておけ。払わないという言葉は、払うべき金がある人間にしか使えない。お前から辞めるとは言うな。向こうに追い出させろ」


「それで、もらえるんですか」


「俺が知るか。勝てる話と金が戻る話は、親戚みたいなものだ。顔は似てるが、同じ家には住んでない」


 若い男は困った顔をした。


「いくらです?」


「銅貨二枚」


「昨日は一枚だって」


「昨日のお前は、証人がいると言わなかった。事実が増えれば値段も増える」


「普通は話が楽になるんじゃ」


「俺の仕事が減った。代わりにお前の得が増えた。喜んで払え」


 男は懐から銅貨を二枚出した。


 ギュンターは一枚だけ取り、もう一枚を指で押し戻した。


「それで麦酒を一杯、店主へ頼め」


「結局二枚じゃないですか」


「相談は一枚だ。酒は俺の健康のためだ」


「健康に悪いでしょう」


「法律家へ事実を教えるな。嫌われるぞ」


 若い男は納得しない顔のまま立ち上がった。途中で店主を呼び止め、銅貨を渡してギュンターの杯を指した。


 新しい麦酒が来るまで、ギュンターは受け取った一枚を卓の端へ置いた。


 そこには同じような銅貨が五枚ほど並んでいた。部屋代にも食事代にも届かない。夜が終わる前に、杯へ姿を変えるための金だった。


「無資格で法律相談か」


 ヴァンフリートが言った。


 ギュンターは顔を上げた。


 三人を順に見たが、シグルーンのところで視線を止めた。


「相談じゃない。酒場の卓で、酔っ払いが法律の話をしてるだけだ」


「銅貨を取ってる」


「酒代を恵んでもらった」


「法家だった頃より、言い訳が上手くなったな」


「資格を失えば、使えるものが一つ減る。残ったものを磨くしかない」


 ギュンターはヴァンフリートを見た。


 目の下には濃い影があったが、瞳まで酒に濁ってはいなかった。


「アルブレヒトの次男か」


「今ごろ気づいたか」


「法院通りへ机を置いてる馬鹿がいるという話は聞いていた」


「お前の横領よりは小さな噂だ」


「預り金の流用と帳簿の不実記載だ。言葉は正確に使え」


「罪名に愛着があるのか?」


「一度それで資格を失えば、名前みたいなものになる」


 店主が、新しい麦酒と一緒に小さな革袋を持ってきた。


「今週の分です」


 ギュンターは袋を受け取らなかった。


「部屋代と食事を引け」


「残りは」


「預かっておけ」


「今夜の酒が足りなくなったら?」


「その時に考える」


 店主は慣れた手つきで革袋の口を確かめ、腰の前掛けへしまった。


 袋には、アーデルスドルフ家の封蝋が残っていた。


 ヴァンフリートはそれを見た。


 ギュンターも、見られたことに気づいた。


「お前の兄貴は、面倒見がいいらしいな」


「お前の父親ほどじゃない」


 その返事だけが、杯へ口をつけるより先に出た。


 ヴァンフリートの目が、わずかに細くなった。


 シグルーンは空いている椅子を引いた。


「お話を伺います」


「断る」


「まだ、何も申しておりません」


「アイスベルク家の女代言人が、ローエンハイムの息子を連れて酒場へ来た。借金の相談でないなら、十二年前の話だ」


「察しがよろしいのですね」


「酒で忘れられる程度なら、とっくに忘れてる」


 シグルーンが座り、アエミリアも隣へ椅子を置いた。


 ヴァンフリートはギュンターの向かいへ腰を下ろした。


「そこは相談人の席だ」


「相談してやる。オットフリートからもらった金は貯めろ。近いうちに止まるかもしれない」


「余計なお世話だ」


「俺の得意分野だ」


 ギュンターは店主へ指を上げた。


「杯を三つ」


「要りません」


 シグルーンが言った。


「では一つ」


「既にございます」


「話が長くなる」


「短く終えてくだされば結構です」


「俺が終える話じゃない」


 ギュンターは法令集を閉じた。


 閉じる前に、挟んでいた紙片の位置だけは指で確かめた。酒場へ身を落としても、必要な箇所を失わない手つきだけは、昔の職へ残してきたつもりがないらしい。


 シグルーンは依頼状の写しを卓上へ置いた。


「私の依頼人は、リーゼロッテ・フォン・ローエンハイム様です」


「本人は来てないのか」


「来る必要がございません」


「自分の婚約だろ」


「ですから、判断に必要な事実だけを持ち帰ります」


 ギュンターは依頼状へ手を伸ばさなかった。


「兄から聞いてる」


「オットフリート様から?」


「ああ。アイスベルクの女が来ても余計なことを言うな。アルブレヒトの息子が一緒なら、なおさらだとな」


「金を払う人間の忠告だけは聞くんだな」


 ヴァンフリートが言った。


「お前の言葉より値打ちがある」


「俺のは無料だ。安さには理由がある」


 シグルーンは、法院で証明を受けた二つの日付を並べた。


 赤い法院印が、酒と脂に曇った卓上でひどく新しく見えた。


「婚約登録の処理は、取下げが受理されるより先に止められていました。命令を出した者として、アルブレヒト様の名がございます」


 ギュンターの顔は動かなかった。


 杯へ伸びていた手だけが、卓の上で止まった。


「御存じでしたね」


「記録にあるなら、俺へ聞く必要はない」


「停止を知った後で、取り下げたのですか」


「答える義務はない」


 シグルーンは追わなかった。


 問いを重ねる代わりに、止まった手を見た。


 酒場の奥で骰子が転がった。白い骨は卓の縁に当たり、誰かの笑い声が低い梁へぶつかって落ちた。


 ヴァンフリートは、杯を取り上げたギュンターの横顔を見ていた。


 口の右端だけをわずかに引く癖があった。


 煙の中に浮かんだその癖だけが、十二年の歳月を越えて、雨上がりのローエンハイム邸へつながった。


 法学院の寄宿舎から短い休暇で戻った夕暮れだった。


 若いヴァンフリートは、裏庭から玄関へ続く廊下で、見知らぬ男とすれ違った。今より肉づきがよく、上等な外套を着ていた男は、老従僕に何かを尋ねられ、振り返りもせずに答えた。


 ――兄と話はついていた。


 誰の兄か。


 何の話か。


 当時のヴァンフリートは知らなかった。


 ギュンターに婚約があることさえ、聞かされていなかった。ただ、見知らぬ男が自分の家を知った顔で出ていくことだけが、妙に癇に障った。


 その横顔が、空になりかけた杯の向こうへ戻っていた。


「お前」


 ヴァンフリートが言った。


「十二年前、うちの屋敷へ来たな」

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