第19話
リーゼロッテは、シグルーンの執務室で報告を待っていた。
窓際の小さな卓に、まだ口をつけていない茶がある。湯気は細くなり、窓硝子へ映った彼女の顔を時折曇らせていた。
シグルーンが入ると、リーゼロッテは立ち上がった。
その後からアエミリアが入り、さらにヴァンフリートが続く。
リーゼロッテは兄を見てから、シグルーンへ目を戻した。
「兄様も、御一緒だったのですか」
「勝手についてきました」
「偶然だ」
「記録庫の前で待っておられました」
アエミリアが言った。
「お前はどっちの助手だ」
「事実の側です」
「給金を払ってないと、すぐ裏切るな」
シグルーンは書類入れを卓上へ置いた。
「御説明の前に伺います。お兄様とアエミリア様に、同席をお認めになりますか」
「はい」
リーゼロッテは答えた。
「ですが、シグルーン様から伺いたいです」
「俺の説明は嫌か」
「兄様は、説明の前に誰が悪いかを仰いますから」
「時間の節約だ」
「今日は節約なさらないでください」
「妹まで助手みたいになったな」
ヴァンフリートは窓際の椅子へ腰を下ろした。
シグルーンはリーゼロッテの前へ座り、証明書を開いた。
「最初に、確かめられたことだけを申し上げます」
「はい」
「十二年前、ギュンター・フォン・アーデルスドルフ様の婚約登録申請が法院へ出されています。その申請が後に、申請者側から取り下げられたことも記録にございます」
リーゼロッテは黙って聞いていた。
「ですが、取下げが受理されるより前に、登録の処理は止められていました」
彼女の目が、わずかに動いた。
「誰が、止めたのですか」
「命令を出した者として、アルブレヒト様の名がございます」
「父上が」
「はい」
「兄上は?」
「停止の記載を登録簿へ移した者として、コンラート様の名がございます。ですが、そのことだけで、コンラート様が停止を判断したとは言えません」
シグルーンは、アエミリアが書いた時系列を開いた。
一本の線の上へ、停止の日と取下げの日が置かれている。
リーゼロッテは二つを見比べた。
「取下げられたから、父上が止めたのではないのですね」
「その順序ではございません」
「父上が止めた後で、ギュンター様が取り下げた」
「記録上は、そうなります」
リーゼロッテの視線が、線の左から右へ移った。
たったそれだけの距離だった。
けれど十二年のあいだ、家族の口では逆の影に隠れていた。
「では、父上が婚約を破談にしたのですか」
「そこまでは分かりません」
シグルーンはすぐに答えた。
「確認できたのは、登録の処理を一度止めたことです。婚約そのものを解消する権限を行使したのか、何らかの確認が済むまで留めただけなのか、その理由が分かる書面は見つかっておりません」
「理由が、ないのですか」
「現在の書類にはございません」
「異議を申し立てた方も?」
「正式な異議の申立ては、確認できませんでした」
「父上が、御自分の判断だけで止めたということですか」
「それも、まだ断定できません。別の場所に書面があるかもしれません。口頭で緊急の事情を聞き、後から書面を補うつもりだった可能性もございます。あるいは、初めから必要な書面が作られなかった可能性もあります」
「何も分からないのですね」
リーゼロッテの声に、わずかな失望が混じった。
「いいえ」
シグルーンは静かに言った。
「分からない範囲が、昨日より狭くなりました」
リーゼロッテは顔を上げた。
「昨日までは、申請が取り下げられたから手続が終わったように聞かされていました。今は、その前にアルブレヒト様が処理を止めていたと分かっています」
「なぜ止めたのかは、分からない」
「はい」
「それが正しかったのかも」
「まだ判断できません」
「では、父上が悪いとは」
「申し上げられません」
ヴァンフリートが窓際から言った。
「父上が善人だったとも言えないぞ」
「兄様」
「どっちも証拠がない。片方だけ慰めに使うな」
「ローエンハイム卿の仰るとおりです」
シグルーンが言った。
ヴァンフリートは眉を上げた。
「気味が悪いな。お前が俺に同意した」
「御安心ください。次は違います」
「早く言え」
「黙っていてください」
「やっぱりいつものお前だな」
リーゼロッテは時系列へ目を落としたまま尋ねた。
「父上と、婚約なさるはずだった方とのあいだに、何か御関係があったのですか」
「それを示す申告も、確認できませんでした」
「ないのであれば、関係がなかったのでは?」
「関係がないと記した書面もないのです」
「では」
「当時の担当者は、当事者と親族や姻戚に当たるかどうかを申告することになっていました。その紙が、綴りにございません」
「父上が、その方の親族だったという証拠ではない?」
「はい。関係があったとも、なかったとも、今の記録では確かめられないということです」
リーゼロッテは少し黙った。
「その方のお名前は」
「今回の閲覧では、確認しておりません」
シグルーンが答えた。
「なぜですか」
「今の申立てで認められたのは、あなたの婚約条件に持ち込まれた過去の手続を調べる範囲です。第三者の名まで開く必要があるかは、別に判断されます」
「兄様も、御覧になっていないのですか」
「白い紙の方が俺より権限があった」
「つまり?」
「隠してあった。俺も知らない」
リーゼロッテは兄の顔を見た。
ヴァンフリートの声に、知っていながら伏せている響きはなかった。
「お前に隠すと約束した覚えはない」
「分かっています」
「なら、そんな顔をするな」
「どのような顔ですか」
「家族の言葉を疑ってる顔だ」
「兄様が教えたのでしょう」
「悪いところばかり似るな」
「似ておりません」
「そこまで強く否定するな。傷つくだろ」
リーゼロッテの口元が、ほんの少し緩んだ。
けれど、時系列へ目を戻すと、その笑みは消えた。
「父上は、なぜ話してくださらなかったのでしょう」
誰もすぐには答えなかった。
それは記録にない問いだった。
「誰かを守ろうとしているんだろう。俺達はそれを暴こうとしている墓荒らしだ。墓守の仕事は黙っていることだからな」
ヴァンフリートが言った。
シグルーンは彼を一度見てから、リーゼロッテへ向き直った。
「アルブレヒト様へ、改めて理由を尋ねることはできます」
「お答えになるでしょうか」
「昨日までと同じであれば、難しいでしょう」
「でしたら、どうすれば」
「取下げをした側へ聞きます」
リーゼロッテは、右に置かれた日付を見た。
「ギュンター様に?」
「はい。停止を受けた後で、なぜ申請を取り下げたのか。取下げの申出を御本人が出したのか。その前に、誰とどのような話をしたのか」
「横領で資格を失った方ですよね。本当のことをおっしゃられのでしょうか」
「彼が嘘を言おうとも、暴いてみせますわ」
シグルーンが答えた。
リーゼロッテは頷いた。
「ギュンター様は、どちらにいらっしゃるのでしょう」
シグルーンが書類をめくった。
「当時の住所は残っています。まず、現在もお住まいか照会を――」
「無駄だ」
ヴァンフリートが言った。
「なぜですの?」
「あいつは資格を失った後、屋敷を出てる。今の住所へ手紙を送れば、昔の使用人が丁寧に捨ててくれるだけだ」
「御存じなのですか」
「酒場にいることは知ってる」
リーゼロッテが眉を寄せた。
「なぜ、酒場だけ」
「法曹資格を失った人間の行き先は、婚約相手より噂になる。王都は他人の不幸にだけ記憶がいい」
「どちらの酒場です?」
シグルーンが尋ねた。
「南の旧市壁にある黒鹿亭だ。夕方になればいる。金があれば卓に、なければ店の裏にいる」
「確かな情報ですか」
「法院通りの書記たちが、あいつへ昔の借金を返せと言われるたび話してる」
「先ほどまで、記録官へ直接質問なさらないという条件でしたわね」
「記録官には聞いてない」
「誰に聞かれたのです」
「頼まなくても聞こえる。噂ってのは、給金を払わなくても働く助手だ」
アエミリアが彼を見た。
「わたしへの当てつけですか」
「お前は噂より字がきれいだ」
「それだけでしょうか」
「欲張るな」
シグルーンは書類入れを閉じた。
「では明日、私が黒鹿亭へ参ります」
「俺も行く」
「お断りします」
「お前に会いに行くわけじゃない」
「ギュンター様へ質問するのは、依頼人の代言人である私です」
「質問はお前がしろ。俺は答えを聞く」
「今日と同じ手を使うおつもりですか」
「成功した手は繰り返すものだ」
「先生は、途中から質問もしておられました」
アエミリアが言った。
「細かいことを覚えるな」
「明日は、扉の外で待っていただきます」
「酒場の扉に閲覧許可は要らないぞ」
「店主へ頼みます」
「店主は酒代を払う客を追い出さない」
「お飲みになるのですか」
「水より安全ならな」
「リーゼロッテ様」
シグルーンは依頼人へ顔を向けた。
「お兄様の同席を、お認めになりますか」
ヴァンフリートが口を開くより先に、リーゼロッテが答えた。
「お願いします」
「俺への信用が戻ったか」
「いいえ」
「早いな」
「お止めしても、兄様は隣の卓で聞いておられるでしょう」
「妹にしては賢い」
「ですから、シグルーン様の決めた条件を守ってください」
「お前まで条件を出すのか」
「口を挟まないこと。ギュンター様を怒らせないこと。わたくしの代わりに答えを決めないこと」
「最後のは答えを聞く前から難しいな」
「先生」
「分かってる」
「分かっておられないから申し上げています」
「今日は全員、俺の扱い方が母上に似てきたな」
リーゼロッテは、机の上に残された二つの日付を見た。
「兄様」
「何だ」
「ギュンター様が、父上を悪く仰っても、最後まで聞いてください」
「お前は父上を信じてないのか」
「信じています」
「なら、なぜ聞く」
リーゼロッテはしばらく答えなかった。
「信じていることを、知らないための理由にはしたくありません」
ヴァンフリートは妹を見た。
その言葉に、毒を差し挟む場所はなかった。
「分かった」
ヴァンフリートは言った。
「最後までは聞く。信じるかどうかは別だ」
「はい」
「お前もだ。あいつが可哀想な顔をしても、事実より先に同情するな」
「兄様も、悪人らしい顔をしているからと、事実より先に疑わないでください」
「注文が多い妹だな」
「家族ですから」
「その言葉を使えば勝てると思うな」
リーゼロッテは、今度はほんの少し笑った。
窓の外には、午後の柔らかな光が傾いていた。




