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第7話

 ゾンダーブルク邸の客間は、昼だというのに薄暗かった。


 窓辺の幕が半ば閉じられ、春の光は織物を通るうちに色を失っていた。

 卓上には一通の和解書が置かれている。

 その白さばかりが部屋の中央に浮かび、集まった者の顔を冷たく照らしていた。


 エーリヒは以前と変わらぬ身なりで現れた。


 夜会で婚約を破棄した男とも、持参金の返還を求められている男とも見えない。

 よく整えた服の襟元には乱れがなく、アエミリアへ向ける眼差しにも、憎しみより疲れた思いやりを置いていた。


 傍らにはハルデンブルク家の代言人が座っている。


 ヴァンフリートはアエミリアの隣で、長椅子の背にだらしなく身を預けていた。

 この部屋で一人だけ、客として見られる気がないらしかった。


「こうして争いを長引かせることは、私も望んでいません」


 エーリヒが言った。


「アエミリアの名誉にも、両家にとっても、よいことではない」


「俺の依頼人の名誉を壊した奴が、急に修理屋になったぞ」


 ヴァンフリートが呟いた。


 相手方の代言人が眉を寄せた。


「本日は冷静な話し合いのために参りました」


「なら人選を間違えたな。俺は冷静だが、お前たちに都合が悪い」


「ローエンハイム殿」


 アエミリアの父が低く制した。


 ヴァンフリートは肩をすくめたが、姿勢を直しはしなかった。


 父は娘を一度見た。


「まず条件を聞こう」


 相手方の代言人が和解書を開いた。


 文面はすでに読んでいる。

 しかし紙に書かれたものを人の口から聞くと、文字だけの時よりも、そこへ込められた意図がはっきりした。


 ハルデンブルク家は持参金の一部を返す。その代わり、アエミリアは婚礼準備に際して過度な浪費をしたことを認め、リーナを脅したことについて謝罪する。

 婚約破棄はアエミリアの金銭感覚と嫉妬に原因があったものとし、今後は残る財産について返還を求めない。


 読み終えると、客間は静かになった。


 庭の木から落ちた雫が、窓の外で細く鳴った。


「返還するのは一部だけですか」


 アエミリアが尋ねた。


 相手方の代言人が頷いた。


「すでに婚礼準備へ使われた分があります。すべてを返すことは現実的ではありません」


「残ってるだろ」


 ヴァンフリートが言った。


「形が変わっただけだ。借金が減った。屋敷が綺麗になった。衣装と宝石になった。金貨の形じゃなくなれば、持ち主まで消えるのか?」


「いずれはアエミリア様もお住まいになる屋敷でした」


「追い出した後で言うと、ずいぶん趣のある冗談になるな」


 エーリヒがヴァンフリートを見た。


「私はアエミリアを追い出したのではありません。婚姻を続けられない事情が生じたのです」


「事情は便利だ。誰かが作った顔をしない」


「あなたは私を、初めから彼女の財産を狙っていた詐欺師にしたいらしい」


「俺は何にもしたくない。お前が何をしたか確かめてるだけだ。お前の人格を作るほど暇じゃない」


 エーリヒの口元から、穏やかな表情が少しだけ消えた。


 だがすぐにアエミリアへ向き直った。


「君は、私の家の帳簿まで外へ持ち出そうとしている。これ以上続ければ、夜会でのことも、君の署名も、法院で改めて明らかになる」


「承知しています」


「大勢の前でリーナを侮辱したこともか」


「はい」


「彼女を脅したことも?」


「それはしておりません」


 エーリヒは悲しげに息をついた。


「言われた側が、どれほど恐ろしかったかを君が決めるのか」


 アエミリアはすぐには答えなかった。


 リーナへ向けた自分の言葉を思い返した。深紅の衣装を見た瞬間、胸の奥に湧いた怒りは今も消えていない。

 けれど、あの怒りに身分の差を持ち込み、彼女の生まれを低く扱ったのは自分である。


「わたしは、あの方を侮辱しました」


「なら――」


「最後までお聞きください」


 エーリヒの言葉を遮ったのは、婚約してから初めてだった。


「『あなたのような方が』と申しました。あの方の身分を、自分より低いものとして傷つけるために使いました。謝罪すべき言葉です」


 アエミリアは和解書へ目を落とした。


「ですが、王都から追い払うとも、ご家族へ害を加えるとも申しませんでした。謝るべきことがあるからといって、口にしていない脅しまで認めることはできません」


「言葉を細かく切り分けて、自分を正当化するつもりか」


「そのために代言人がいる」


 ヴァンフリートが答えた。


「お前が一つに固めた話を、元に戻してるだけだ。侮辱された。それは本当だ。脅迫された。そっちはこれから証明しろ」


 相手方の代言人が和解書へ手を添えた。


「アエミリア様ご自身の署名により、多額の支出が行われた点はお認めになりますね」


「認めます」


「支払先を十分に確かめなかったことも?」


「はい」


「でしたら、ご自分の浪費についても――」


「それは認めません」


 アエミリアの声は静かだった。


 けれど先ほどより、はっきりしていた。


「わたしは大金の支出を承認しました。細かな行き先を確かめなかった責任もあります。しかし、その金でわたしの衣装を買ったのではありません。わたしの屋敷を直したのでもありません。わたしの借金を返したのでもない。それを、わたしが自分のために浪費したとは書けません」


 エーリヒは目を細めた。


「君は変わったな」


「そうでしょうか」


「あのような男に、言い逃れを教えられた」


「失礼だな」


 ヴァンフリートが片方の眉を上げた。


「俺が教えたのは、お前の話を最後まで聞くなってことだけだ。中身が腐ってるのは最初からだ」


「あなたと話しているのではない」


「俺は代言人だ。お前が依頼人へ都合のいい罪を着せ始めたら、勝手に話へ入る。嫌なら壁と和解しろ」


 アエミリアの父が、娘へ尋ねた。


「よく考えたのか」


「はい」


「法院へ進めば、あの夜の言葉も残る」


「残してください」


 父の目に、わずかな痛みが浮かんだ。


 アエミリアはその痛みから逃げなかった。


「わたしが言ったことは残してください。確認せず署名したことも、消さなくて結構です」


 そのうえで和解書を閉じ、エーリヒの側へ押し返した。


「ですが、自分のために持参金を浪費したとは認めません。リーナを脅したとも、わたしの浪費と嫉妬が破談の原因だったとも認めません」


「それでは和解にならない」


 エーリヒが言った。


「この条件を受け入れるなら、わたしは財産だけでなく、あなたが作った悪女まで引き取ることになります」


「評判はすでに広がっている」


「だから紙に残して事実にしろと?」


 アエミリアは首を横に振った。


「お断りします」


 エーリヒの顔から、ようやく憐れみが消えた。


 代わりに現れたのは怒りではなく、理解できないものを見る冷たさだった。


「法院で同じことを言えると思うな。署名は君のものだ。支出も現実に行われた。夜会には証人がいる」


「よかったな」


 ヴァンフリートが立ち上がった。


「一つも隠す必要がない。法院で全部喋れ」


「後悔することになる」


「便利な脅しだ。今のところ、お前よりリーナの方が脅迫者らしくない」


 相手方の代言人も席を立った。


「では、和解は不成立として扱います」


「今ごろ分かったのか。長い文章を読むと、耳まで疲れるらしい」


 エーリヒは最後までアエミリアを見ていた。


 彼女が目を逸らさないと知ると、何も言わず客間を出た。


 扉が閉じた後、部屋には雨上がりの匂いだけが残った。

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