第16話
法院の奥には、朝が遅れて届く部屋があった。
高い窓から落ちる光は、石壁の冷たさを通るうちに色を失い、古い紙と同じ薄黄色になって机を照らしている。人の暮らしから切り離された年月が、革表紙のあいだで静かに眠っていた。
婚約記録庫の前で、シグルーンは閲覧許可状を記録官へ渡した。
リーゼロッテ個人の封印と、登録停止を受理した法院の印が並んでいる。記録官は二つを確かめ、帳面へシグルーンの名を書き入れた。
「補助者は、お一人と伺っております」
「アエミリア様です」
シグルーンが答えると、アエミリアは胸元から小さな確認証を出した。昨夜、リーゼロッテの同意を得た上で、閲覧内容を書き取る者として届け出てある。
「では、お二人で――」
「三人だ」
背後から声がした。
振り返るまでもなかった。
ヴァンフリートは廊下の柱へ肩を預け、初めからそこにいたような顔をしている。外套には朝露が残り、靴の先には法院通りの泥がついていた。
シグルーンは閲覧許可状より冷たい目で彼を見た。
「なぜ、いらっしゃるのです」
「道に迷った」
「法院通りへ机を置いて十年になる方が?」
「長く住めば、迷い方にも馴れる」
「昨日、私が古い婚約記録を閲覧すると知った上で、今朝この部屋の前へ来ることを、世間では待ち伏せと申します」
「待ち伏せは襲う相手がいる時に使え。ここには紙しかいない」
「紙はあなたから逃げられませんもの。人間より危険ですわ」
ヴァンフリートは記録官の持つ許可状を覗いた。
「俺の名前がないな」
「今ごろ気づかれたのですか」
「書き忘れだろ」
「書く理由がございません」
「俺はリーゼロッテの兄貴だ」
「昨日、兄だから代言人になれないと申し上げたばかりです」
「代言人になるとは言ってない。見るだけだ」
「閲覧を許された者だけが、見るのです」
「なんで助手は許可されて、雇用主である俺は許可されないんだ?」
「リーゼロッテ様が望まれたからです」
「紙を見るのに、目の許可まで要るのか?」
「その目の持ち主に問題があるのです」
記録官は二人のあいだで視線を往復させた。
ヴァンフリートを追い返してよいものか、シグルーンへ任せてよいものか、どちらを選んでも一日の仕事が増えそうだった。
アエミリアが帳面を閉じた。
「リーゼロッテ様は、確認された事実を先生へ伝えることは認めておられます」
「ええ」
シグルーンは答えた。
「ですが、閲覧を委任したとは伺っておりません」
「同じ部屋で後から聞く。手間が省けるだろ」
「あなたは記録へ触れないこと。記録官へ直接質問しないこと。私が退室を求めたら従うこと。それを守れますか」
「条件が多いな。婚約でもする気か?」
「不快ですわ」
「俺もだ。話が合うな」
シグルーンはため息をついた。
「守れるのですか」
「触らない。質問しない。出ていかない」
「最後が違います」
「二つも守るんだ。欲張るな」
シグルーンはしばらく彼を見つめた。
ヴァンフリートの背後では、記録を運ぶ小僧が木箱を抱えたまま立ち尽くしていた。追い返したところで、扉の外から聞き耳を立てるか、閲覧が終わるまで廊下に居座るだけだろう。
「私の許可なく、口を挟まないでください」
「口は触るなと言われてない」
「先生」
アエミリアが呼んだ。
「分かってる。お前までアイスベルクみたいな顔をするな」
「どのような顔ですか」
「俺が間違ってると確信した顔だ」
「よくお分かりですね」
シグルーンは記録官へ向き直った。
「進めてください」




