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第15話

 その日のうちに、シグルーンは申立書を整えた。


 婚約の破棄を求める書面ではない。


 本人が条件の意味と過去の紛争を知り、婚約を続けるか拒むか判断するまで、登録判断を進めないよう求める書面だった。


 婚約条件に基づく財産移転と任官支援も、同じ期間は動かさない。


 アーデルスドルフ家からリーゼロッテへの直接の催促や交渉を止め、以後の連絡を代言人であるシグルーンへ通すことも求めた。


 リーゼロッテは一つずつ説明を受け、最後に署名した。


 その隣へ、シグルーンが代言人として名を置いた。


「これで、婚約はなくなるのですか」


「いいえ」


「続くのですか」


「それも、まだ決まりません」


「止まるだけ」


「あなたが決めるまで」


 リーゼロッテは、自分の署名を見た。


 婚約条件書にある名と、同じ形をしている。


 片方は、知らないものを引き受けた名だった。


 もう片方は、知るまで待つよう求めた名だった。


 どちらも偽物ではない。


 後から書いた署名が、先の署名を消したわけでもなかった。


 ただ、自分の意思は一度書けば終わるものではないと、初めて紙の上へ残した。


 申立書を受け取った後、シグルーンは家族全員を応接の間へ戻した。


「私は、リーゼロッテ様だけを依頼人とします」


 アルブレヒトとコンラートを正面にして、そう告げた。


「ローエンハイム家の名誉も、お二人の職務上の地位も、私の依頼対象ではございません」


「家族へ不利益を与えて、娘を守れると思うのか」


「必要であれば、家族へ不利益な事実も確認します」


「アイスベルク」


 ヴァンフリートが言った。


「何ですの?」


「楽しそうに言うな」


「あなたの御家族だから特別に厳しくするほど、私は暇ではございません」


「十分楽しそうだ」


「先生」


 アエミリアが呼んだ。


「分かってる。黙る」


 シグルーンはアルブレヒトへ視線を戻した。


「お二人が何もしていないのであれば、その事実を確認します。責任があるのであれば、リーゼロッテ様の婚姻へ移すことは認めません」


「何を知っている」


 コンラートが尋ねた。


「まだ、何も」


「ならば」


「何も知らないから、隠さないよう申し上げています」


 シグルーンの声は穏やかだった。


「今後、私の照会へ事実を伏せ、書面を欠き、依頼人へ説明すべき情報を止めた場合、私は受任を続けません」


「辞任するというのか」


「理由を明記して」


 コンラートの顔が固くなった。


「御家族が情報を隠したため、依頼人の意思確認ができなかったと記録へ残します」


「脅しか」


「条件です」


「アーデルスドルフと同じ言葉を使うな」


 ヴァンフリートが言った。


「違いは明確ですわ。私は婚姻も財産も要求しておりません」


「そこまで言うな。父上の顔が悪くなっちまう。息子としては心配なんだ」


「元からです」


「お前、俺より性格が悪いだろ」


「褒め言葉として受け取っておきます」


 リーゼロッテは二人の応酬を聞きながら、依頼状を両手で持っていた。


「兄様」


「何だ」


「わたくしは、知ると決めました」


 ヴァンフリートは妹を見た。


 昨夜までの彼なら、よく決めたと言ったかもしれない。


 兄の望んだ結論へ妹が近づいたことを、正しい選択と呼んだかもしれない。


「そうか」


 それだけ答えた。


「止めないのですか」


「止めてほしいのか」


「いいえ」


「なら、言うことはない」


 リーゼロッテは、ほんの少し笑った。


 アエミリアは、その笑みを見てから窓の外へ目を向けた。


 庭を揺らしていた風はやみ、硝子を叩いていた枝も静かになっていた。


 謎が解けたわけではない。


 誰が何をしたのかも、まだ分からない。


 ただ、知らないまま差し出されようとしていた一人の人生が、ようやく自分の意思で立ち止まった。

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