第13話
マルガレーテが顔を上げた。
「リーゼロッテ、わたくしは――」
「母上は、わたくしを守ってくださいます」
リーゼロッテは静かに言った。
「父上も、兄上も、兄様も。皆様がそう仰います」
卓の上の料理は、もう湯気を失っていた。
「けれど、婚約を続けるべきだと仰る方と、止めるべきだと仰る方がいて、どちらもわたくしを守るためだと仰います。では、わたくしは誰の言葉を聞けばよいのでしょう」
「お前自身だ」
ヴァンフリートが答えた。
「その自分が、何も知らないのです」
返された言葉に、ヴァンフリートは黙った。
リーゼロッテはアエミリアを見た。
「アエミリア様は、どう思われますか」
それは、答えを求める問いだった。
婚約を続けるべきか、やめるべきか。
自分の代わりに、正しい方を選んでほしいという問いでもあった。
アエミリアはすぐに答えなかった。
ここで婚約をやめるべきだと言えば、ヴァンフリートと同じになる。
続けるべきだと言えば、家族と同じになる。
どちらも、リーゼロッテの知らない場所から結論だけを渡すことになる。
「わたしには、分かりません」
アエミリアは言った。
リーゼロッテの目に、落胆が浮かんだ。
「申し訳ございません。けれど、分からないことを、あなたの人生へ正しい答えとして置くことはできません」
「では、わたくしはどうすれば」
「御自分の代言人を、おつけください」
部屋の誰も、すぐにはその意味を受け取れなかった。
「代言人なら、兄様が」
「先生では、兄になってしまいます」
アエミリアは同じ言葉を、今度はリーゼロッテへ向けた。
「先生は、あなたが不利な婚姻へ入ることを見過ごせません。お父様とコンラート様は、家の名が公になることを避けたいとお考えです。お母様には、まだ口にできない事情がおありなのでしょう」
マルガレーテは否定しなかった。
「皆様が、あなたを大切に思っておられます。ですが、大切に思うことと、あなたと同じ利益を持つことは別です」
「わたくしだけの代言人を、ということですか」
「はい」
「その方は、家族を守ってはくださらないのですか」
「依頼人であるあなたを守ります」
「兄様のように、婚約を止めるのではなく?」
「止めるかどうかも、あなたの指示で決めます」
「わたくしが、続けたいと申しても」
「その意思が、事情を知った上でのものであるかを確かめます。続けると決めたなら、その選択を守るために条件を争うでしょう」
「では、やめたいと申したら」
「婚約から離れられるように働きます」
「どちらでもよいということですか」
「いいえ」
アエミリアは首を振った。
「どちらでもよいのではありません。どちらを選ぶのかを、あなた以外の方に奪わせないということです」
リーゼロッテの視線が、条件書へ落ちた。
自分の名が書かれた紙である。
財産も、任官も、まだ知らない過去も、すべて一つの婚約へ結びつけられている。
「けれど、知れば、誰かを傷つけるかもしれません」
「はい」
アエミリアは否定しなかった。
「御家族の名誉が傷つくかもしれません。アーデルスドルフ家の主張が事実であれば、お父様やコンラート様にも不利益があるかもしれません。名を伏せられている方がいるのなら、その方の望まない形で話が広がる危険もございます」
リーゼロッテの顔が強張った。
慰めを期待していたのではない。
それでも、恐れているものを並べて肯定されれば、胸の奥にある怯えは形を得る。
「でしたら、やはり知らない方が」
「知らないことで、それらがなくなるのでしょうか」
アエミリアの声は穏やかだった。
「今、知らなければ、御家族の過去は消えますか。名を伏せられている方は、本当に守られますか。アーデルスドルフ家は、二度とこの件を使わないと分かりますか」
「婚姻すれば、使わないと」
「そう書いた方々が、何を使っているのかさえ、わたしたちは知りません」
リーゼロッテは黙った。
「わたしが申し上げたいのは、知ることが正しいということではありません」
アエミリアは続けた。
「すべてを公にする必要もございません。知ったことを、誰へどこまで伝えるかも分けられます。御本人の名を伏せたまま確認できる事実もあるでしょう。見る必要のない書面まで開く必要もございません」
「それを、代言人が分けるのですか」
「あなたと相談して分けます」
「わたくしには、法律の知識がありません」
「ですから、代言人をつけるのです。知らないあなたに代わって決めるためではなく、あなたが決められるところまで、分からないものを分けるために」
窓の外で、枝が硝子へ触れた。
先ほどより風は弱くなっていた。
「わたくしは、自分一人が引き受ければよいと思っておりました」
リーゼロッテは言った。
「わたくしが嫁ぎ、財産を持参し、ルートヴィヒ様を支えれば、それで皆が困らずに済むのだと」
「その選択を、わたしは笑いません」
アエミリアは答えた。
「御自身で損失を引き受けようとなさることも、一つの意思です」
「兄様は、愚かだと仰るでしょう」
「俺を便利な悪役にするな」
ヴァンフリートが横から口を挟んだ。
「先生は少しお静かに」
「またか。家族が見てるぞ」
「今は、わたしがお話ししています」
「偉くなったな」
「先生が黙ってくだされば、さらに上達できます」
リーゼロッテの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
アエミリアは彼女へ向き直った。
「御自身のものだけを差し出すのであれば、それも選択です」
「わたくしのものだけ?」
「はい」
「財産も、婚姻も、わたくしのものです」
「では、御家族の責任は?」
リーゼロッテの笑みが消えた。
「まだ、何があったのか分かっておりません」
「だからこそです。御家族の責任が何もなければ、それを確かめられます。もし責任があるのなら、それをあなたの婚姻で支払ってよいかは、別の問題です」
「名を伏せられている方の沈黙は」
「その方のものです」
アエミリアは静かに言った。
「今も沈黙を望んでいるのか。何を知られたくないのか。そもそも本当にそのような方がいるのか。まだ分かりません。ですから、あなたが御自分の婚姻へ、その方の意思まで持参させることはできません」
リーゼロッテの目が揺れた。
それまで一つに見えていたものが、初めて分かれた。
自分の財産。
自分の婚姻。
父と兄の名誉。
まだ名も知らない誰かの沈黙。
条件書は、それらをすべて一つの代金にしていた。
だが、同じ紙へ書かれたからといって、同じ者が支払ってよいものではない。
「知ることは、裏切ることではございません」
アエミリアは言った。
「知った上で、それでも守ると決めることもできます」
「知った上で、婚約を続けることも」
「できます」
「本当に?」
「わたしは、婚約をやめていただくためにお話ししているのではありません」
アエミリアの目には、ためらいがなかった。
「何も知らないまま、正しい娘であろうとなさらなくてよいと申し上げています」
リーゼロッテは目を伏せた。
幼い頃から、家の中で求められることをよく理解する娘だった。
父が疲れていれば騒がず、母が沈んでいれば理由を尋ねず、兄たちの話が難しければ席を外した。
知らないことは、信頼の形だと思っていた。
尋ねないことが、家族を大切にすることだと思っていた。
今、その沈黙が自分の婚姻へ署名させるために使われている。
家族が悪意を持っていたとは思えない。
だからこそ、深く傷ついた。
「もし、知ってしまって」
リーゼロッテはゆっくりと言った。
「それでも、わたくしがこの婚約を選んだら、皆様は認めてくださるのでしょうか」
父も、兄も、すぐには答えなかった。
ヴァンフリートが口を開きかけた。
アエミリアは彼を見た。
「先生」
「分かってる」
彼は不機嫌そうに椅子へ背を預けた。
「俺の気に入らない答えでも、お前の答えなら残す」
「破談になさらない?」
「俺にその権限はない。今度こそ覚えろ」
「権限がなくても動かれる方です」
「兄の悪口を事実みたいに積むな」
「事実ではないのですか」
「助手が増えた気分だ」
わずかな笑いが、卓の上を通った。
長くは続かなかった。
だが、その短い間だけ、リーゼロッテは誰かを守るためではなく、自分のために息をつくことができた。
「では」
彼女はアエミリアを見た。
「どなたを、代言人に選べばよいのでしょう」
アエミリアはすぐには名前を出さなかった。
「わたしが決めてよろしいのですか」
「候補を教えてください。その中から、わたくしが選びます」
その言い方に、ヴァンフリートがわずかに眉を上げた。
アエミリアは頷いた。
「お一人、存じております」
「誰です」
「シグルーン・フォン・アイスベルク様です」
「よりによって、あいつか」
ヴァンフリートが言った。
「先生にも、ローエンハイム家にも従わない方です」
「それだけなら王都中にいる」
「先生と争っても、依頼人に必要なものだけは手放さなかった方です」
「褒めてるのか」
「事実を申し上げています」
「嫌な事実だな」
リーゼロッテは、兄とアエミリアを見比べた。
「兄様とは、仲がお悪いのですか」
「良かったことがない」
「仕事上の信頼はございます」
アエミリアが補った。
「余計なことを言うな」
「では、その方にお願いします」
リーゼロッテは言った。
ヴァンフリートが顔を向けた。
「会ってから決めろ」
「兄様が嫌がり、アエミリア様が仕事を信頼しておられるのでしたら、候補としては十分です」
「判断基準が俺への嫌がらせになってるぞ」
「家族ですから」
「その言葉、本当に嫌いになってきたな」




