↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
59/195

第12話

 その夜、ローエンハイム家の食卓には、料理より先に十二年前という言葉が置かれた。


 銀の蓋をかぶせられた皿からは、まだ湯気が上がっている。けれど誰も蓋を取ろうとはしなかった。窓の外では風が庭木を揺らし、細い枝が硝子へ触れるたび、何かが入れてほしそうに小さな音を立てた。


 ヴァンフリートは条件書を卓上へ置いた。


 向かいにはアルブレヒトとコンラートが座り、マルガレーテはリーゼロッテの隣にいた。アエミリアだけが家族から少し離れ、卓の端へ椅子を置いている。


「実はなリーゼロッテ、アーデルスドルフ家へ行ってきた」


 ヴァンフリートが言った。


「聞いています」


 リーゼロッテは答えた。


「早いな。家族の秘密は遅いが、俺の行き先だけはよく届く」


「ヴァンフリート」


「妹に聞かせたくないなら、本人を呼ぶ前に言え。椅子へ座らせてから耳を塞ぐな」


「兄様」


 リーゼロッテの声には、朝よりも疲れがあった。


「わたくしが伺いました。隠さないでほしいと」


「そうか。なら、お前の知らないところでは話さない」


 アルブレヒトの眉がわずかに動いた。


 ヴァンフリートはそれを見たが、何も言わなかった。


「オットフリートが言ったのは、十二年前に不肖の弟ギュンターの婚約申請があったこと。その手続に父上と兄上の名が関係してること。婚約申請は取り下げられたことだ」


 リーゼロッテは、兄ではなく父を見た。


 アルブレヒトは目を逸らさなかった。


 だが、何も説明しなかった。


「それだけですか」


「記録で確かめた事実は、まだ一つもない。今のは全部、オットフリートと父上と兄上が口で言ったことだ」


「父上と兄上も、婚約申請があったことをお認めになったのですか」


「申請は取り下げられた」


 コンラートが答えた。


「兄上」


「それ以上は、今は話せない」


 リーゼロッテの指が、膝の上で重なった。


「なぜです」


「関係者の名誉に関わる」


「その方のお名前を、わたくしは伺っておりません」


「だからだ」


「お名前を知らないことと、何も知らされないことは同じなのですか」


 コンラートは答えなかった。


 昨朝までのリーゼロッテなら、そこで質問を止めたかもしれない。


 誰かの沈黙には理由があり、その理由を尊重することが家族への信頼なのだと思っていた。


 今は、答えを止めた兄の顔を見つめていた。


「オットフリートは、この婚約がなくなれば困るのはローエンハイム家だと言った」


 ヴァンフリートが続けた。


「古い事実を公にするともな」


 マルガレーテの手が、卓布の下で小さく動いた。


 リーゼロッテは母を見た。


「母上も、御存じなのですか」


「リーゼロッテ」


 マルガレーテは娘の名を呼んだだけだった。


 その声は、知らない者のものではなかった。


「では、わたくしが婚姻すれば、公にはならないのですね」


「そういう条件だ」


 ヴァンフリートが答えた。


「それなら――」


「言うな」


「まだ何も申しておりません」


「婚約を進めると言う顔をしてる」


「顔まで証拠になさるのですか」


「家族の顔は疑うことにしてる。家族愛だ」


「兄様」


「分かった。言ってみろ」


 リーゼロッテは一度、息を整えた。


「婚姻によって、その方のお名前も、家族の名誉も守られるのであれば、やはり進めるべきだと思います」


「駄目だ」


 ヴァンフリートは即座に答えた。


 ほとんど同時に、アルブレヒトが言った。


「それでよい」


 二つの言葉が、リーゼロッテの前でぶつかった。


 一方は婚約を止めようとし、もう一方は進めようとする。


 正反対の答えだった。


 けれど、どちらも本人が考え終える前に出されたという点では、よく似ていた。


「登録を止める」


 ヴァンフリートは父を見た。


「条件書の効力も、調べ終わるまで動かさない。俺が前へ立つ」


「お前に決める権限はない」


「昨日から何度も聞いた。権限がなければ、必要な申立てを出せばいい」


「リーゼロッテ本人が望んでいない」


「何も知らない本人の望みを、お前たちが都合よく使うな」


「家を守るためだ」


 コンラートが言った。


「この婚約を止めれば、先方は過去の件を公にする。リーゼロッテだけの問題ではない」


「だから妹の婚姻を使う?」


「他に収める方法がない」


「探してないからだろ」


「お前は事情を知らない」


「その便利な台詞、そろそろ擦り切れてるぞ」


 ヴァンフリートの声が鋭くなった。


「事情を隠したまま、知らない妹の答えだけ使うな。父上と兄上が何かしたなら、お前たちが払え。妹を領収証にするな」


「兄様、わたくしは――」


「お前は黙ってろ」


 言ってから、ヴァンフリートは止まった。


 リーゼロッテの顔から、わずかに血の気が引いていた。


 家族に黙らされてきた妹へ、自分も同じ言葉を向けた。


 卓の端で、アエミリアが筆を置いた。


「先生」


「分かってる」


「分かっておられません」


 声は静かだった。


 けれど、ヴァンフリートの次の言葉を許さなかった。


「先生では、兄になってしまいます」


 ヴァンフリートはアエミリアを見た。


「元から兄だ」


「ですから、代言人にはなれません」


「俺なら止められる」


「何をですか」


「婚約登録だ」


「それから?」


 ヴァンフリートは答えなかった。


「登録を止め、条件の執行を止め、その後で先生は、リーゼロッテ様へ何を選ばせるおつもりですか」


「真実を確かめてから決めさせる」


「婚約を続けると仰っても?」


「それが自由な意思なら――」


 言葉の途中で、ヴァンフリートは黙った。


 アエミリアは目を逸らさなかった。


「今、迷われました」


「一呼吸だ」


「その一呼吸で十分です」


「ずいぶん偉くなったな」


「先生が教えたのです」


「悪いところから覚えた」


「見本が身近におりますので」


 リーゼロッテの目元が、ごくわずかに動いた。


 笑ったのではない。


 張りつめた糸が、ほんの少しだけ緩んだ。


「ヴァンフリートが代言人で、何が悪いのだ」


 アルブレヒトが尋ねた。


「お前が言うのか」


 ヴァンフリートは父へ顔を向けた。


「だが今だけは意見が合いそうだな。記念に酒でも開けるか」

 

 アルブレヒトはため息を一つ付くと、目線をアエミリアに戻した。


「アルブレヒト様とコンラート様にも、リーゼロッテ様と同じ利害はございません」


 アエミリアが答えた。


 部屋の空気が変わった。


 コンラートの視線が、初めて正面からアエミリアへ向いた。


「どういう意味です」


「十二年前の手続に、お二人の名が関わっていると告げられています」


「相手方の主張にすぎない」


「はい。事実とは確定しておりません」


 アエミリアは、言葉を一つずつ置いた。


「ですが、もしお二人の職務や判断が調べられるのであれば、お二人には御自身を守る利益が生じます。リーゼロッテ様には婚姻を選ぶ利益と、拒む利益があります。似て見えても、同じではございません」


「私たちは家族だ」


「家族であることは、利害が同じである証明にはなりません」


「娘を守ろうとしている」


 アルブレヒトが言った。


「先生も、そうです」


 アエミリアはヴァンフリートを見た。


「守ろうとして、本人より先に答えを出しています」


「俺と父上を一緒にするな」


「異なる結論を、同じように押しつけておられます」


「俺は、妹の婚姻を差し出してない」


「ですが、婚約を止める役を御自分のものになさろうとしました」


「止めなければ登録される」


「ですから止めること自体ではなく、誰の指示で止めるのかが大切なのです」


 ヴァンフリートは黙った。


 彼女が見ているのは議論ではない。


 ヴァンフリートと父と兄のあいだで、また答えを失いかけているリーゼロッテだった。


「では」


 リーゼロッテが言った。


 声は小さかった。


 それでも、今度は誰も途中で遮らなかった。


「わたくしには、誰もいないのですか」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。