第12話
その夜、ローエンハイム家の食卓には、料理より先に十二年前という言葉が置かれた。
銀の蓋をかぶせられた皿からは、まだ湯気が上がっている。けれど誰も蓋を取ろうとはしなかった。窓の外では風が庭木を揺らし、細い枝が硝子へ触れるたび、何かが入れてほしそうに小さな音を立てた。
ヴァンフリートは条件書を卓上へ置いた。
向かいにはアルブレヒトとコンラートが座り、マルガレーテはリーゼロッテの隣にいた。アエミリアだけが家族から少し離れ、卓の端へ椅子を置いている。
「実はなリーゼロッテ、アーデルスドルフ家へ行ってきた」
ヴァンフリートが言った。
「聞いています」
リーゼロッテは答えた。
「早いな。家族の秘密は遅いが、俺の行き先だけはよく届く」
「ヴァンフリート」
「妹に聞かせたくないなら、本人を呼ぶ前に言え。椅子へ座らせてから耳を塞ぐな」
「兄様」
リーゼロッテの声には、朝よりも疲れがあった。
「わたくしが伺いました。隠さないでほしいと」
「そうか。なら、お前の知らないところでは話さない」
アルブレヒトの眉がわずかに動いた。
ヴァンフリートはそれを見たが、何も言わなかった。
「オットフリートが言ったのは、十二年前に不肖の弟ギュンターの婚約申請があったこと。その手続に父上と兄上の名が関係してること。婚約申請は取り下げられたことだ」
リーゼロッテは、兄ではなく父を見た。
アルブレヒトは目を逸らさなかった。
だが、何も説明しなかった。
「それだけですか」
「記録で確かめた事実は、まだ一つもない。今のは全部、オットフリートと父上と兄上が口で言ったことだ」
「父上と兄上も、婚約申請があったことをお認めになったのですか」
「申請は取り下げられた」
コンラートが答えた。
「兄上」
「それ以上は、今は話せない」
リーゼロッテの指が、膝の上で重なった。
「なぜです」
「関係者の名誉に関わる」
「その方のお名前を、わたくしは伺っておりません」
「だからだ」
「お名前を知らないことと、何も知らされないことは同じなのですか」
コンラートは答えなかった。
昨朝までのリーゼロッテなら、そこで質問を止めたかもしれない。
誰かの沈黙には理由があり、その理由を尊重することが家族への信頼なのだと思っていた。
今は、答えを止めた兄の顔を見つめていた。
「オットフリートは、この婚約がなくなれば困るのはローエンハイム家だと言った」
ヴァンフリートが続けた。
「古い事実を公にするともな」
マルガレーテの手が、卓布の下で小さく動いた。
リーゼロッテは母を見た。
「母上も、御存じなのですか」
「リーゼロッテ」
マルガレーテは娘の名を呼んだだけだった。
その声は、知らない者のものではなかった。
「では、わたくしが婚姻すれば、公にはならないのですね」
「そういう条件だ」
ヴァンフリートが答えた。
「それなら――」
「言うな」
「まだ何も申しておりません」
「婚約を進めると言う顔をしてる」
「顔まで証拠になさるのですか」
「家族の顔は疑うことにしてる。家族愛だ」
「兄様」
「分かった。言ってみろ」
リーゼロッテは一度、息を整えた。
「婚姻によって、その方のお名前も、家族の名誉も守られるのであれば、やはり進めるべきだと思います」
「駄目だ」
ヴァンフリートは即座に答えた。
ほとんど同時に、アルブレヒトが言った。
「それでよい」
二つの言葉が、リーゼロッテの前でぶつかった。
一方は婚約を止めようとし、もう一方は進めようとする。
正反対の答えだった。
けれど、どちらも本人が考え終える前に出されたという点では、よく似ていた。
「登録を止める」
ヴァンフリートは父を見た。
「条件書の効力も、調べ終わるまで動かさない。俺が前へ立つ」
「お前に決める権限はない」
「昨日から何度も聞いた。権限がなければ、必要な申立てを出せばいい」
「リーゼロッテ本人が望んでいない」
「何も知らない本人の望みを、お前たちが都合よく使うな」
「家を守るためだ」
コンラートが言った。
「この婚約を止めれば、先方は過去の件を公にする。リーゼロッテだけの問題ではない」
「だから妹の婚姻を使う?」
「他に収める方法がない」
「探してないからだろ」
「お前は事情を知らない」
「その便利な台詞、そろそろ擦り切れてるぞ」
ヴァンフリートの声が鋭くなった。
「事情を隠したまま、知らない妹の答えだけ使うな。父上と兄上が何かしたなら、お前たちが払え。妹を領収証にするな」
「兄様、わたくしは――」
「お前は黙ってろ」
言ってから、ヴァンフリートは止まった。
リーゼロッテの顔から、わずかに血の気が引いていた。
家族に黙らされてきた妹へ、自分も同じ言葉を向けた。
卓の端で、アエミリアが筆を置いた。
「先生」
「分かってる」
「分かっておられません」
声は静かだった。
けれど、ヴァンフリートの次の言葉を許さなかった。
「先生では、兄になってしまいます」
ヴァンフリートはアエミリアを見た。
「元から兄だ」
「ですから、代言人にはなれません」
「俺なら止められる」
「何をですか」
「婚約登録だ」
「それから?」
ヴァンフリートは答えなかった。
「登録を止め、条件の執行を止め、その後で先生は、リーゼロッテ様へ何を選ばせるおつもりですか」
「真実を確かめてから決めさせる」
「婚約を続けると仰っても?」
「それが自由な意思なら――」
言葉の途中で、ヴァンフリートは黙った。
アエミリアは目を逸らさなかった。
「今、迷われました」
「一呼吸だ」
「その一呼吸で十分です」
「ずいぶん偉くなったな」
「先生が教えたのです」
「悪いところから覚えた」
「見本が身近におりますので」
リーゼロッテの目元が、ごくわずかに動いた。
笑ったのではない。
張りつめた糸が、ほんの少しだけ緩んだ。
「ヴァンフリートが代言人で、何が悪いのだ」
アルブレヒトが尋ねた。
「お前が言うのか」
ヴァンフリートは父へ顔を向けた。
「だが今だけは意見が合いそうだな。記念に酒でも開けるか」
アルブレヒトはため息を一つ付くと、目線をアエミリアに戻した。
「アルブレヒト様とコンラート様にも、リーゼロッテ様と同じ利害はございません」
アエミリアが答えた。
部屋の空気が変わった。
コンラートの視線が、初めて正面からアエミリアへ向いた。
「どういう意味です」
「十二年前の手続に、お二人の名が関わっていると告げられています」
「相手方の主張にすぎない」
「はい。事実とは確定しておりません」
アエミリアは、言葉を一つずつ置いた。
「ですが、もしお二人の職務や判断が調べられるのであれば、お二人には御自身を守る利益が生じます。リーゼロッテ様には婚姻を選ぶ利益と、拒む利益があります。似て見えても、同じではございません」
「私たちは家族だ」
「家族であることは、利害が同じである証明にはなりません」
「娘を守ろうとしている」
アルブレヒトが言った。
「先生も、そうです」
アエミリアはヴァンフリートを見た。
「守ろうとして、本人より先に答えを出しています」
「俺と父上を一緒にするな」
「異なる結論を、同じように押しつけておられます」
「俺は、妹の婚姻を差し出してない」
「ですが、婚約を止める役を御自分のものになさろうとしました」
「止めなければ登録される」
「ですから止めること自体ではなく、誰の指示で止めるのかが大切なのです」
ヴァンフリートは黙った。
彼女が見ているのは議論ではない。
ヴァンフリートと父と兄のあいだで、また答えを失いかけているリーゼロッテだった。
「では」
リーゼロッテが言った。
声は小さかった。
それでも、今度は誰も途中で遮らなかった。
「わたくしには、誰もいないのですか」




