第10話
ローエンハイム家へ戻った頃には、日が傾いていた。
朝の霧は消え、屋敷の石壁には淡い夕日が差していた。昨日飾られていた白い花は、まだ応接の間に残っている。
花弁の縁だけが、わずかに茶色くなっていた。
アルブレヒトとコンラートは書斎にいた。
ヴァンフリートが条件書を卓上へ置くと、二人とも何も尋ねなかった。
彼がどこへ行ってきたか、既に知っている顔だった。
「十二年前」
ヴァンフリートは言った。
「ギュンター・フォン・アーデルスドルフに婚約があったそうだな」
アルブレヒトの顔は動かなかった。
コンラートだけが、置いていた筆から指を離した。
「知らなかったよ。あいつに金を預ける馬鹿がいたことは知ってたが、娘を預ける家まであったとはな」
「ヴァンフリート」
「俺が学生だった頃の話だ。どこの誰とも知らない縁談まで、寄宿舎へ報告されるわけじゃない。それとも家族会議を欠席した罰で、十二年遅れて聞かされてるのか?」
「どこまで聞いた」
コンラートが尋ねた。
「お前が先に答えろ」
「質問したのは私だ」
「俺は客だぞ。もてなせ」
「ここを家ではないと言ったのはお前だ」
「都合のいい時だけ覚えてる。立派な兄だな」
軽い言葉はそこで切れた。
ヴァンフリートは父を見た。
「オットフリートは、ギュンターの婚約申請に父上と兄上の名が関わってると言った」
アルブレヒトは答えなかった。
「嘘か」
「相手方の言葉だけで、何を判断するつもりだ」
「判断してない。否定する機会をやってる」
「恩着せがましいな」
「親切は苦手なんだ。早く使え」
アルブレヒトは窓へ目を向けた。
外には、秋の名残を含んだ薄い空があった。
「あの件を、リーゼロッテの前で口にするな」
「否定しないのか」
「今は答えられん」
「いつなら答えられる」
「必要な時が来れば」
「妹が署名した後でも、まだ必要じゃないのか?」
アルブレヒトの眉が動いた。
「だからこそだ」
「何が、だからこそなんだ」
「リーゼロッテを巻き込むな」
「もう巻き込まれてる」
ヴァンフリートは条件書の表紙を指で叩いた。
「本人の名前が一番大きく書いてある。これ以上どうやって巻き込む」
「婚約を続ければ、何も公にならない」
「それを選ばせるために、何も教えなかったのか」
「違う」
「やっと否定したな。何が違う」
アルブレヒトは口を閉ざした。
コンラートが代わりに答えた。
「十二年前の婚約申請は、相手方から取り下げられた。それで処理は終わっている」
「誰と誰の婚約だ」
「今は言えない」
「父上と同じ台詞を使うな。家族らしく見える」
「御本人の名誉に関わる」
「オットフリートも同じことを言った」
コンラートの顔が固くなった。
「相手の女が誰かは聞いてない。まず、父上と兄上が何をしたかを聞いてる」
「申請は取り下げで終わった」
「結果じゃない。お前たちの行為だ」
「今、話せることはない」
「話せないのか。話したくないのか」
「同じことだ」
「違う。話せない人間には理由がある。話したくない人間には利益がある」
コンラートはヴァンフリートを見た。
「家のためだ」
「便利だな。全員が黙ると、家が喋ったことになる」
「お前には分からない」
「そうだ。だから聞いてる」
「聞けば傷つく者がいる」
「もう一人傷つけて、人数を揃えるのか?」
コンラートは答えなかった。
書斎の外で、衣擦れの音がした。
マルガレーテか、リーゼロッテかは分からなかった。音は扉の前で止まらず、そのまま遠ざかった。
アルブレヒトが低く言った。
「これ以上は、何も話さん」
「分かった」
ヴァンフリートはあっさり答えた。
父と兄が、わずかに彼を見た。
「納得したわけじゃない。お前たちの口から聞くのを諦めただけだ」
「何をするつもりだ」
「まだ何も」
「ヴァンフリート」
「心配するな。オットフリートの告発を信じたわけでもない」
ヴァンフリートは条件書を取り上げた。
「あいつは妹の婚約を値段にしてる。お前たちは妹の婚約を蓋にしてる。どっちも、中身を見せない点だけは気が合ってる」
「古い記録へ触れるな」
コンラートが言った。
「今、何と言った」
「この件は、既に終わっている」
「触れるなと言ったな」
「言葉尻を――」
「捉える。言葉で仕事をしてるからな」
ヴァンフリートの目が、兄から外れなかった。
「登録簿を見られると困るのか」
「そうは言っていない」
「では、見ても構わない?」
コンラートは答えなかった。
その沈黙は、否定よりも重かった。
「いい家族だな」
ヴァンフリートは言った。
「母上は来いと書かずに俺を呼び、父上は答えずに妹を守り、兄上は見るなと言わずに記録を隠す。全員、言葉を使わないのが上手くなった」
「お前に何が分かる」
「今は何も」
ヴァンフリートは扉へ向かった。
「だから、分かるところから見る」




