第9話
ヴァンフリートはオットフリートを見た。
「もう一度言え」
「困るのは、ローエンハイム家です」
「妹じゃなく?」
「もちろん、リーゼロッテ嬢にも不利益は生じるでしょう。婚約が成立しなければ、両家の古い問題を、別の形で整理する必要が生じるという意味です」
「別の形とは」
「事実を公にすることも含まれます」
アエミリアの筆が止まった。
「公にする事実とは、何でしょうか」
「ローエンハイム家へお尋ねになればよい」
「今、お前が脅しに使った。説明するのもお前だ」
ヴァンフリートの声から、軽さが消えていた。
「脅しではありません。選択肢を申し上げているだけです」
「妹が嫁げば黙る。嫁がなければ公にする。これを選択肢と呼ぶなら、追い剝ぎも道案内で飯が食えるな」
「不法な金銭を要求しているわけではございません」
「金銭だけじゃない。妹と土地と収益と推薦を要求してる。欲張りだから犯罪じゃないと言いたいのか?」
オットフリートは答えなかった。
ルートヴィヒが、父の横で指を組み直した。
その動きを、アエミリアは見た。
条件の詳しい説明を受けていない者の反応ではなかった。
「登録簿をご覧になればよい」
オットフリートは言った。
「何の登録簿だ」
「十二年前の婚約登録簿です」
ヴァンフリートは黙った。
――十二年前。
その頃、ヴァンフリートはまだ寄宿制の法学院にいた。休暇のたびに屋敷へ戻ってはいたが、家の揉め事を逐一知らされる立場ではなかった。
「誰の婚約だ」
「弟ギュンターのものです」
初めて、過去の紛争へ人の名が入った。
その男に婚約があったことは、今初めて聞いた。
「相手は」
「今、申し上げる必要はございません」
「お前が決めるな」
「御本人の名誉に関わります」
「名前を守る顔をしながら、その婚約を妹への値札に使う。器用な兄だな」
「御覧になれば分かると申し上げております」
「登録簿のどこを」
「弟の婚約申請へ、ローエンハイム家が何をしたのか」
オットフリートは、それ以上を言わなかった。
「父上と兄上の名があるのか」
「ございます」
「何をした」
「登録簿をご覧ください」
「停止か。改変か。申請への異議か」
「私の言葉ではなく、記録で確かめるべきでしょう」
「急に正論を使うな。似合わない」
「あなたも代言人であるなら、相手方の説明だけで御家族を疑うことはなさらないはずだ」
「心配するな。俺はお前も家族も同じくらい疑ってる」
ヴァンフリートは椅子へ背を預けた。
「十二年前の婚約に、父上と兄上が関わった。お前が今言ったのは、それだけだな」
「登録簿が、それ以上を示します」
「まだ見てない。今は、お前の告発にすぎない」
「結構です」
「結構かどうかは俺が決める」
ルートヴィヒが口を開いた。
「この婚約が成立すれば、登録簿を調べる必要もございません」
ヴァンフリートは、ゆっくりと青年へ顔を向けた。
「なぜだ」
「両家は姻戚となります。古い不幸を、これ以上外へ出す必要がなくなるからです」
「不幸?」
ルートヴィヒの目が、わずかに揺れた。
「過去の争いを指しただけです」
「なら争いと言え。名前を変えると、誰が何をしたかまで消えると思うな」
「リーゼロッテ様が嫁がれれば、古い不幸は眠ったままでいられます」
ルートヴィヒは、今度は言い直さなかった。
その声には父ほどの老練さがなかった。
代わりに、自分は脅しているのではなく、皆にとって穏やかな解決を勧めているのだという確信があった。
人は、自分が利益を受ける話へ他人の安息を添えると、驚くほど善良な顔ができる。
「眠らせたいのは誰だ」
ヴァンフリートが尋ねた。
「関係者全員です」
「妹は何も知らない」
「知らずに済むことも、幸福ではありませんか」
「お前が幸福の中身まで決めるのか」
「リーゼロッテ様は、この婚約を承諾されました」
「条件だけ見せて、理由を隠してな」
「それでも、御本人の署名です」
「そうだ。署名は本物だ」
ヴァンフリートは条件書を閉じた。
「だから、お前たちが勝手に意味を足すな」
「意味を足しているのは、あなたでは?」
「俺はまだ、何があったとも言ってない」
ヴァンフリートは立ち上がった。
「父上と兄上が何かしたというのも、お前の話だ。ギュンターの婚約と妹の婚約が結びつくというのも、お前たちが作った条件だ。俺が確認したのは一つだけ」
「何でしょう」
「妹が嫁がなければ、ローエンハイム家に不都合な話を公にするつもりだということだ」
オットフリートは否定しなかった。
「両家が姻戚となれば、その必要はなくなります」
「必要じゃない。お前の選択だ」
ヴァンフリートは綴りを小脇へ抱えた。
「姻戚になれば告発をやめる人間は、正義のために告発するんじゃない。値段が合わないから黙るだけだ」
「御家族の名誉を損なうことになっても、同じことが言えますかな」
「名誉が紙一枚で死ぬなら、元から生きてない」
アエミリアも立ち上がった。
卓上に出された茶は、二人とも口をつけないまま冷めていた。
「それで、婚約はどうなさるおつもりです」
オットフリートが尋ねた。
「俺に決める権限はない」
「では、なぜここへ」
「決める人間に、何が隠されてるかを確かめるためだ」
「リーゼロッテ嬢は既に御署名を」
「本物の署名だ。何度も言わせるな」
ヴァンフリートは扉の前で振り返った。
「本物だから、何を書かせても同意になると思うな」




