第8話
答えは、出された茶が冷めるより先に得られた。
アーデルスドルフ家の王都屋敷は、ローエンハイム家より広く、新しかった。古い家紋を掲げながら、門扉も窓枠も近年取り替えられている。過去を重んじているというより、過去が立派に見えるよう磨き直した家だった。
応接の間にも、手入れの行き届いた調度が並んでいた。
磨かれすぎた卓には、触れた者の指紋さえ残りそうになかった。
オットフリートは長椅子の中央へ座り、ルートヴィヒはその右にいた。
ヴァンフリートとアエミリアが入っても、二人は意外そうな顔をしなかった。条件書を渡せば、いずれ来ると考えていたらしい。
「お早いお越しで」
オットフリートが言った。
「妹の未来が毎年利息をつけて持っていかれる。のんびりしてるともっと高くなるからな」
「誤解がおありのようですな」
「よかった。誤解なら話が早い。正しい条件書を出せ」
ヴァンフリートは卓上へ綴りを置いた。
オットフリートは紙ではなく、ヴァンフリートの顔を見ていた。
「そちらの御令嬢は?」
「俺の助手だ」
「アエミリア・フォン・ゾンダーブルクと申します」
アエミリアが礼をした。
「本日は、婚約条件について確認させていただきます」
「確認なさるのは、御当人ではないのですか」
「本人へは確認した」
ヴァンフリートが答えた。
「署名は本物。自分で読み、自分で書いた。残念だったな。偽造を見つけて終わる話じゃない」
「残念に思う理由がございません」
「そうか。俺は残念だ。偽物なら紙一枚で済んだのに」
オットフリートは笑みを崩さなかった。
その隣で、ルートヴィヒも口元へ同じ形を作っている。
父子はよく似ていた。
顔立ちよりも、相手が不愉快なことを言い終えるまで、礼儀を保ったまま待てるところが似ていた。
「まず、持参財産について伺います」
アエミリアが条件書を開いた。
「婚姻時に渡される財産だけでなく、リーゼロッテ様が将来取得される土地からの収益まで、継続してアーデルスドルフ家へ支払われる理由は何でしょうか」
「領地の管理には費用がかかります」
「管理はローエンハイム側が行うと書いてある」
ヴァンフリートが言った。
「お前たちは何を管理する。収穫祭の日取りか?」
「婚姻後には、両家の財産関係を整理する必要があります」
「整理するのは分かった。なぜ整理した金が全部そっちへ行く」
「全部ではありません」
「なるほど。一部なら強欲じゃない。泥棒も半分残せば慈善家になれるらしいな」
「先生」
アエミリアが静かに呼んだ。
「何だ」
「質問への御回答がまだです」
「今のが回答だ。言葉が多くて中身がない」
オットフリートは、わずかにアエミリアへ目を移した。
ヴァンフリートの毒舌には、腹を立てた顔を見せなければよい。だが、その言葉をアエミリアが普通の問いへ戻すたび、答えていない事実だけが卓上へ残った。
「両家の格にふさわしい支度であると考えております」
オットフリートは言った。
「ローエンハイム家からも、異議はございませんでした」
「異議がなかったことと、公平であることは別です」
アエミリアが答えた。
「異議を言えない事情がある場合もございます」
「そのような事情があると?」
「それを伺うために参りました」
オットフリートの笑みが、わずかに薄くなった。
「よい助手をお持ちですな」
「やらないぞ?」
「求めておりません」
「見る目だけはあるらしい」
ヴァンフリートは次の頁を開いた。
「ルートヴィヒの任官推薦。父上と兄上が、能力と品行を保証することになってる」
「私は、必要な教育を修めております」
ルートヴィヒが初めて口を開いた。
「教育を受けた人間は王都にいくらでもいる。お前だけ保証人を二人つけて売り出す理由は何だ」
「婚姻によって親族となる方々へ、推薦をお願いすることは不自然ではありません」
「お前の能力が足りないから頼むのか。信用が足りないから頼むのか。両方か」
「必要な審査は、正規に受けるつもりです」
「なら受けろ。父上と兄上の名前を椅子の下へ敷く必要はない」
「推薦は、不正ではないはずです」
「昨日も同じ言葉を聞いた。家族になると台詞まで相続するのか」
ルートヴィヒの頬から、わずかに血の気が引いた。
「不正ではないものへ、不正ではないものを重ねて、断れば何かを失う形にする。お前たちが欲しいのは推薦じゃない。ローエンハイム家の信用だ」
「当家にも、相応の信用がございます」
「なら自分のを使え」
短い言葉が落ちると、ルートヴィヒは黙った。
オットフリートが息子へ顔を向けることはなかった。
庇わなかったのではない。
息子が答えるべき場所と、自分が答える場所を、初めから分けているのだ。
ヴァンフリートは婚約解消時の責任へ進んだ。
「妹から解消すれば、任官準備の損失まで妹が払う。お前の息子から解消すれば実費だけ。これも家格にふさわしいのか」
「婚約の成立を確実にするためです」
「逃げ道を片方だけ塞いで、確実と呼ぶのか」
「リーゼロッテ嬢は、婚約を望んでおられます」
「望んでる人間に、逃げた時の罰を重くする必要があるのか」
「将来の気まぐれまで、当家が負う理由はございません」
「今、お前は妹の意思を気まぐれと呼んだのか」
オットフリートの目が初めて冷えた。
「将来、その意思が変わった場合の話です」
「意思は変わる。変わらないなら確認なんて要らない。お前たちは花嫁の意思を尊重してるんじゃない。昨日の返事を鎖で明日まで引っ張るつもりだ」
「言葉が過ぎますな」
「条件の方が過ぎてる。俺の言葉は紙より安い」
アエミリアは二人のあいだへ手を出さなかった。
ただ、オットフリートが財産と推薦には説明を重ね、解消責任についてはリーゼロッテの気まぐれという言葉を使ったことを書き留めた。
最後の頁が開かれた。
オットフリートの目が、ほんのわずかに下がった。
過去の紛争へ異議を述べないこと。
既に処理された婚約上の手続について、再調査を求めないこと。
関係者の名誉を損なう公表を行わないこと。
現在の婚姻をもって、両家の争いを解決済みとすること。
「これだ」
ヴァンフリートは言った。
「新しい婚約の中へ、名前も日付もない古い争いを入れた。何を封じる条項だ」
「書面のとおりです」
「書いてないから聞いてる」
「過去に処理された、両家間の問題です」
「何の問題だ」
「既に終わったことです」
「終わったなら、再調査を禁じる必要がない」
「終わった争いを蒸し返す方は、世の中にいくらでもおられます」
「だから、蒸し返されたら困る人間の名前を聞いてる」
オットフリートは、卓上の条件書へ目を落とした。
答えを探しているのではなかった。
どこまで答えるかを選んでいる目だった。
「この婚約が成立しなかった場合、困るのは当家ではありません」
「では、誰だ」
「ローエンハイム家です」
部屋の時計が、一度だけ鳴った。
音は高い天井へ昇り、薄くなって消えた。




