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第7話

 法院の門をくぐる人が増え始めると、遠くで馬の蹄が鳴り、石畳の上を朝の光がゆっくり広がっていく。


「両家のあいだに、以前から問題があるとだけ」


「どんな問題だ」


「存じません」


「誰が関わってる」


「存じません」


「いつ起きた」


「それも、伺っておりません」


「何があれば解決する」


「わたくしが、ルートヴィヒ様と婚姻することです」


「それ以外は何も知らない?」


「はい」


「何も知らないまま、調べないと署名したのか」


 リーゼロッテの指が、もう一度動いた。


「知らなくてもよいと思いました」


「どうして」


「昔の問題なのであれば、今さら誰かを傷つけてまで明らかにする必要はないと思ったからです」


「誰が傷つく」


「分かりません」


「誰がそう言った」


「父上も、兄上も、詳しくはお話しになりませんでした」


「アーデルスドルフ側は」


「この婚姻が成立すれば、両家にとって最も穏やかに収まると」


「穏やかに」


「はい」


「何を収めるかは言わずに?」


「はい」


 ヴァンフリートは妹を見た。


 そこに嘘はなかった。


 隠している者の顔ではない。


 何も与えられていないのに、与えられた範囲で決めようとしている者の顔だった。


「なるほど」


「何がですか」


「お前は秘密を守ってるんじゃない。秘密があると言われたことを守ってる」


 リーゼロッテの顔が強張った。


「同じことではありませんか」


「違う。中身のある箱を預かるのと、開けるなと言われた空箱を抱えるのは別だ」


「空だとお考えなのですか」


「知らない」


 ヴァンフリートは即座に答えた。


「何かあるとも、何もないとも言ってない。箱の中身を見てないのは、俺もお前も同じだ」


「けれど、父上と兄上は御存じです」


「たぶんな」


「母上も」


「それも分からない」


「でしたら、兄様は何を調べるおつもりなのですか」


「まだ決めてない」


 リーゼロッテは意外そうに兄を見た。


「お分かりにならないのですか」


「分からないものを、分かった顔で調べ始める方が馬鹿だ。先に罪人を決めれば、どんな紙でも証拠に見える」


「では、この条件書は」


「誰かが、過去を調べられたくないと思ってる。その一点だけだ」


 ヴァンフリートは頁の端を指で持ち上げた。


「何があったのか。誰がしたのか。ローエンハイム家が隠してるのか、アーデルスドルフ家が空箱を振って脅してるのか。今は何も分からない」


「兄様にも」


「俺を何だと思ってる」


「分からないことを、相手が嫌がるまで聞く方だと」


「よく知ってるな」


「妹ですから」


 ヴァンフリートは鼻を鳴らした。


 アエミリアは開かれた頁を見ながら、静かに尋ねた。


「リーゼロッテ様は、知りたいと思われますか」


 リーゼロッテは答えなかった。


 条件書へ署名した時には、知る必要はないと思っていた。


 知れば、誰かを傷つける。


 知らずに婚姻すれば、誰も傷つかずに済む。


 そう聞かされ、その中から選んだ。


 しかし今、兄と助手に一つずつ問われてみれば、自分は傷つく者の名さえ知らなかった。


 何を守る婚姻なのかも知らない。


 知らないことを受け入れたのではない。知る必要はないと、他人に決められていた。


「まだ、分かりません」


 リーゼロッテは、ようやく答えた。


「知ることで、何かを壊してしまうのなら、知らない方がよいと思います」


「では、知らないまま妻になるのですか」


 アエミリアの声は責めるものではなかった。


「それが、わたくしの選んだことです」


「本当か?」


 ヴァンフリートが尋ねた。


 リーゼロッテは兄を見た。


「昨夜は、お前が決めたことを偽物にするなと言われた」


 彼は続けた。


「だから、署名したことは消さない。お前が決めたことも残す。そのうえで聞いてる。お前は、何も知らないことまで選んだのか」


「それは――」


 言葉が止まった。


 右の親指が、再び左手へ伸びた。


 けれど、触れる前に戻された。


「知りたいです」


 その声は小さかった。


 家族を守るために婚約を受けると言った時より、ずっと頼りなかった。


 それでも、自分の言葉だった。


「何を守るための婚約なのか。それだけは、知りたいです」


「それでいい」


 ヴァンフリートは条件書を閉じた。


「この紙を書いた側に聞く」


「オットフリート様へ?」


「ルートヴィヒにもだ。花嫁より条件を多く書いたんだ。内容くらい覚えてるだろ」


「わたくしも参ります」


「駄目だ」


「なぜです」


「お前がいると、お前に答えさせる」


「わたくしの婚約です」


「だからだ。お前の前で優しい顔を作る前に、何を欲しがってるか聞く」


「兄様は、初めから喧嘩をなさるおつもりでは」


「失礼だな。相手が正直なら質問で済む」


「正直でなければ」


「向こうが喧嘩を始める」


「同じことではありませんか」


「始めた方が悪い。子供でも知ってる理屈だ」


「先生」


 アエミリアがたしなめた。


「分かってる。法廷では通じない。融通の効かない場所だからな」


 リーゼロッテは納得した顔をしなかった。


 それでも、拒みはしなかった。


「では、わたくしへ隠さないでください」


「俺が?」


「父上と兄上と同じことをなさらないでください」


 ヴァンフリートの目から、わずかに軽さが消えた。


「分かった」


「本当に?」


「二度言わせるな。値打ちが下がる」


 リーゼロッテは一礼し、馬車へ戻った。


 車輪が動き出すまで、ヴァンフリートは机のそばに立っていた。妹は窓の内側から振り返らなかった。


 馬車が通りの角を曲がると、アエミリアは開いたままの条件書を見た。


「リーゼロッテ様は、持参財産の額を御覧になっても、ほとんど表情を変えませんでした」


「金を払う覚悟はできてたんだろ」


「けれど、再調査をしないという条項では、指が止まりました」


「知ってるからじゃない」


「知らないから、ですか」


「知らないものに、家族の不幸を全部入れられた。開けるのが怖いんだろ」


 アエミリアは、リーゼロッテの署名がある頁へ目を落とした。


「本物の署名ですね」


「そうだ」


「けれど、何を承知した署名なのかは、まだ分からない」


「ようやく助手らしいことを言ったな」


「給金は増えますか」


「決まってないものは増やせない」


「便利ですね」


「覚えるなよ。お前が使うと腹が立つ」


 ヴァンフリートは革紐を結び直した。


「このあと、どの記録を調べるのですか」


「まだ調べない」


「なぜです」


「何を探すか分かってない。先に棚へ行けば、見つけた紙に話を合わせることになる」


「では」


「まず、条件を出した人間に聞く」


 ヴァンフリートは綴りを小脇へ抱えた。


「何を隠してるかじゃない」


 朝の風が通りを抜け、机の上に残った母の手紙を揺らした。


「この婚約がなくなると、誰が困るのかをな」

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